戦後体制の守護神・司馬遼太郎

戦後体制の守護神・司馬遼太郎 198p
『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知ってること―沖縄・米軍基地観光ガイド』書籍情報社
戦後文壇、最大のアイドル司馬遼太郎さん。もう亡くなって15年たちますが、いまでも40代以上の男たちには圧倒的な影響力をもっています。人格・識見・文章力、どれをとっても非の打ちどころがない。もちろんぼくも、ほとんど全作品を読んでいます。
 でもそんなス-パースターの司馬さんも、沖縄から見るとまったく風景がちがってきます。そもそもライフワークである「街道をゆく」の第6巻『沖縄・先島への道』を読んでみても、米軍基地に関する記述は1行もない。見事にゼロです。本島の58号線沿いに延々とつづく基地のフェンスが、まるで目に入らなかったのでしょうか。この紀行文が書かれたのが復帰2年後の1974年、本土から沖縄への「基地集中」が完了した時期だということを考えると、その異様さはきわだっています。

 自身、戦車隊の兵士として中国大陸に送られ、栃木県の佐野で終戦をむかえた司馬さんにとって、戦後の民主主義社会は「まことにけっこうなもの」、逆に戦前の軍部に支配された時期は、日本の歴史の伝統から大きく逸脱した最低最悪の時代でした(有名な「鬼胎」または「異胎」という言葉で、司馬さんはこの時代を表現しています)。
 「私は戦後日本が好きである。ひょっとすると、これを守らねばならぬというなら死んでも(というとイデオロギーめくが)いいと思っているほど好きである」(「毎日新聞」1970年1月1日)
 そうした司馬さんこそは、昭和天皇や吉田茂首相が構築した戦後日本(戦後国体)を、民間側から全力で支えた最大の守護神だったといえるでしょう。
 「敗戦になりまして、アメリカ軍が来たときにさほど日本人がショックを受けなかったのは、より軽度の占領が始まっただけだ、そんな感じが、当時にはあったと思います」(1983年5月9目:講演)

 つまりなぜ、外国軍が無期限で駐留しているような現在の状況が正当化されるのか。それは戦前の日本は、国民が「軍部によって占領されていた」最低最悪の時代だったからだ。それにくらべると戦後の米軍による占領は、そこまで悪くない「より軽度の占領」だったということになります。司馬さん自身がどれだけ自覚していたかはわかりませんが、これはまさにルース・ベネディクトのところで見た「対日心理戦争」の基本コンセプトそのものなのです。(p164)
悪いのはみんな軍部、天皇や国民はまったく悪くない。占領が終わったのに、「いつまでも基地を置いてる米軍」も悪くない。この方針で、憲法も講和条約も60年安保も乗り切ってきたわけです。

 おそらくこの問題については、司馬さんはすべてわかったうえで、ひそかに国家指導者であろうとしていたのでしょう。ふだんの論調とは違って公平さを捨て、かなり強引に世論を誘導しようという意思が伝わってきます。ふりかえってみると、冷静でイデオロギー嫌いの司馬さんが、主観を前面に出した感情的な文章を書いたことが、少なくとも3度ありました。三島由紀夫が自衛隊市ケ谷駐屯地に乱入して割腹自殺したとき、昭和天皇が崩御したとき、それと日本に反米・侮米の風潮が起こっているのではないかという江藤淳氏との対談のときです。少し長くなりますが、それぞれ引用してみます。
 まず三島事件から。 1970年11月25日、自衛隊市ケ谷駐屯地で起きた三島由紀夫割腹自殺事件に対して、翌日すぐに毎日新聞で論陣をはり、それが「政治的な死」ではまったくなく、「有島武郎、芥川龍之介、太宰治と同じ系列の、本質は同じながらただ異常性がもっとも高いというだけの」文学論的な死であると決めつけています。

 ふだんは誰のどんな行動に対しても、公平な視点を失わない司馬さんの、ここまで断定的な「政治的意味はかけらもない」という発言は、逆に三島の問題提起がある種の本質(もうひとつのありうべき「戦後日本」のかたち)にふれていたからでしょう。めずらしく、大慌てで火消しに走りまわるという感じの、まず結論ありきの不自然な文章になっています。
 次に昭和天皇の崩御に際して、やはり翌日の1989年1月8日(産経新聞)に、「空に徹しぬいた偉大さ]と題してすぐ寄稿しています。内容は、明治憲法では国務の責任は大臣において最終であり、天皇にはおよばない。昭和天皇はそうした憲法上の立場を生涯つらぬかれ、生身の政治行為者になるという「違憲」を決して犯されなかった。ただ一度だけ、禁を破って違憲行為を行なわれたのが、終戦のご決断だった……。

 「だからもちろん戦争責任はまったくなかった」というのがこの文章の趣旨なのですが、戦前の昭和天皇が、完全な元首とはいえないまでも、頭脳明晰な政治指導者として何度も「政治的行為」を行なっていたことは多くの資料によってあきらかになっています。しかもそれが戦後の占領期までつづいていたことを思うと、これほど客観性のない司馬さんの文章もめずらしいといえるでしょう。しかし司馬さんの愛する「戦後日本」は、天皇の政治責任を完全に否定した上に成りたっている。戦後、昭和天皇が復興のためにいかに努力されたかも痛いほどわかっている。三島事件から約20年。ここでもう一度、はっきりと「この国のかたち」を定義しておこうという強い政治的意図が感じられます(このときアメリカのTVでは、もうひとりの守護神であるライシャワー元駐日大使が、天皇の戦争責任論に対し猛烈に反論していたそうです)。

 でもどうしてそこまで必死になって「戦後国体」を擁護しようとしたのか。今回、資料を読み直していて、ああそうなのかと思った記事がありました。それが先にふれた3つ目にあたる江藤淳氏との対談です(「月刊現代」1972年12月号)。このなかで司馬さんは「中国とは絶対に仲良くしなければいかんのです」とのべたあと、でもアメリカをみくびることがどんなに恐ろしいかを語っています。
 「アメリカの問題を考えるうえで、もし侮米という気持ちがおこるとしたら、アメリカと戦争できるかどうかを、まず考えてみなければいけません。これは男子の論理です。男子たるもの、相手をばかにしようとするなら、まず計算して、戦って勝つという成算を得たときにばかにすればいい。ばかにしたければ、ですよ。それにひきかえ、戦争しても負けるくせに侮るというのは、女ですよ。日本人の外交感覚というのは、多分に女既的です。与党も野党も女です」

 「(拝中侮米を)本気でやるとするなら、男性論で計算しなおして、こういう架空論が成り立ちます。つまり、アメリカと戦争をする覚悟をもつ。そうしたら原子爆弾がくる。そのときには、日本人1億人がすべて〔中国〕大陸に移動する。あそこは世界一原爆に強い国です。あの広いところに8億人が9億人になって広がっても、どうってことはないし、原爆にも耐えうる。だから日本列島を空き家にして、中国に1億人移動することにする。原爆でもなんでも落としてもらいましょう。そのために逃げる用意の汽船を何十万隻そろえる。東シナ海を渡るための石油も保有しておきます」
 「ヨーロッパを歩いてみて、彼らは幸福だなと思いました。(略)いきなりパリをソ連に占領されることもなければ、いきなりパリをアメリカに原爆攻撃されることもない。(略)しかし日本だけは、つねにそういう万一の危険を感じながら、ほとんど衣類もつけず、まるはだかで極東の孤島にいなければならない。三つの世界史上の大きな勢力が、ここで滝のように落ちこんでいる。その滝壷の底にいつもわれわれはいて、滝に打たれているわけです」

 現在のように「まあ実際に核が日本に使用されることはないでしょう」というような、あいまいな楽観論が許される時代ではありませんでした。わずか27年前に本当に原爆を落とされたことの恐怖は、これほど大きかったのです。ある時代のリアルな感情というのは、信頼できる人の体験談からしか理解する方法がありません。あの腹のすわった司馬さんが、これほどの恐怖を感じていた。そして昭和天皇も、古田首相も、岸首相も、みなこうした恐怖に耐えながらアメリカと交渉していたことは、戦後の対米関係を考えるうえで何度も反芻しておく必要があるでしょう(もちろん日本人の憲法9条への強い想いについても、同じことが言えます)。

 冷徹に国家戦略を考えれば、原爆をもつアメリカに逆らうことは絶対にできない。だから沖縄の基地と天皇の戦争責任については目を閉ざすしかない。かつてのファンとしては、
「何度か那覇にきたが、この町で、平静な気持ちで夜をすごせたことがない] という『沖縄・先島への道』のなかの一節にそうした司馬さんの悲痛な思いがこめられているような気がします。