幸徳秋水ら処刑の日の前後

明治44年(1911)1月24日 幸徳秋水ら処刑の日の前後 石川啄木「頭の中を底から掻き乱されたやうな気持」 大石誠之助 堺利彦 徳富蘆花  
■石川啄木
明治44年(1911)1月23日
・石川啄木(25)、自宅にて1日中幸徳秋水事件関係記録を整理。
24日、夜~12時迄「無政府主義者陰謀事件経過および附帯現象」の纏め。
25日、平井修より幸徳・菅野・大石等の獄中書簡を借りる。
26日、深夜迄、平出修の自宅で、7千枚17冊の特別裁判の「訴訟記録」のうち初めの2冊と管野に関する部分を読む。 
*○啄木日記より
一月二十三日 晴 温
休み。
幸徳事件関係記録の整理に一日を費やす。
夜、母が五度も動悸がするといふので心配す。
[受信欄]荻原藤吉といふ人より。
一月二十四日 晴 温
梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香ひがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。
社へ行つてすぐ、「今朝から死刑をやつてる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである、ああ、何といふ早いことだらう。さう皆が語り合つた。印刷所の者が市川君の紹介で会ひに来た。
夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。
薬をのましたせゐか、母は今日は動悸がしなかつたさうである。
一月二十五日 晴 温
昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載つた。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割つた――その事が劇しく心を衝いた。
昨日十二人共にやられたといふのはウソで、菅野は今朝やられたのだ。
社でお歌所を根本的に攻撃する事について渋川氏から話があつた。夜その事について与謝野氏を訪ねたが、旅行で不在、奥さんに逢つて九時迄話した。与謝野氏は年内に仏蘭西へ行くことを企ててゐるといふ。かへりに平出君へよつて幸徳、菅野、大石等の獄中の手紙を借りた。平出君は民権圧迫について大に憤慨してゐた。明日裁判所へかへすといふ一件書類を一日延して、明晩行つて見る約束にして帰つた。
一月二十六日 晴 温
社からかへるとすぐ、前夜の約を履んで平出君宅に行き、特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、一冊の厚さ約二寸乃至三寸づつ。十二時までかかつて漸く初二冊とそれから菅野すがの分だけ方々拾ひよみした。
頭の中を底から掻き乱されたやうな気持で帰つた。
印刷所三正舎から見積書が来た。釧路から小奴の絵葉書をよこしたものがあつた。
[受信欄]釧路の斉藤秀三氏より。三正舎より。
■大石誠之助
明治44年(1911)1月23日
・大石誠之助の平出修宛て手紙(処刑前日)。
「・・・。陳ば過去三ケ月に亘り私共被告連の為一方ならぬ御心労に預り何とも御礼の申様も無之侯。あれだけの御骨折下候以上は其結果の如何について今更何も言ふべき限りには無之事と存候。
・・・。
尚ほ今回の事件は、之を法律の上より政治学の上より果(ママ)た犯罪学の上より研究する人は弁護土中他にも之あるべく侯へども、特に我が思想史の資料として其真相をつきとめ置かるるの責任は、貴下を措いて他に何人も之にあたる人無之、此事は法廷において我々を弁護せられたる責任よりも遥に重大なる事と存侯」
■堺利彦
明治44年(1911)1月24日
・幸徳秋水(41)以下11名に死刑執行。
ここで日没となったため、翌25日、管野すが子(31)に死刑執行
*
黒岩比佐子「パンとペン」より
24日、堺利彦が朝10時頃に面会に行くと、今日は面会できないと断られた。
東京監獄では極秘にしていたが、面会できない理由を尋ねても返事がなく、ただならない様子から、堺は死刑執行と察する。
吉川守圀によれば、入口の看守が気の毒そうに「実は執行命令が来て、今頃はもう四人目あたりをやってゐると息ひます」と教えてくれたという。同情した看守がつい口を滑らせたらしい。
堺はその日何をしたかを自分では書いていないが、彼はすぐに各地の処刑された人々の家族や親族に悲しい電報を打っている。
*
1月25日
・堺利彦、この日と翌26日の両夜、同志たちの死体を引き取りに行き、白木綿に包まれた骨箱を堺宅に安置する。
堺は、それらを遺族に引き渡し、引取人がいないものは供養をし、遺品を分配する。のちに、幸徳秋水の遺稿『基督抹殺論』を出版。
*
25日午前11時頃、堺、大杉、石川、吉川ら数人と、処刑者の一部の親族たちとが東京監獄へ遺体引き取りに行く。
『東京朝日新聞』記者の松崎天民(本名・市郎)と『報知新聞』記者の毛呂正春が、これについて記事を書いている。
この日、東京監獄は看守・警官約80人がこれを取り囲むという厳重な警戒態勢。
この日夕方、ようやく幸徳秋水ら6人分の棺だけが引き渡された。監獄北側にある不浄門から6つの棺が運び出されると、堺らはそれを荒縄で縛り、丸太棒を通して担いで落合火葬場まで運んだが、途中で何度も警察官や私服刑事に行列を止められ、身体検査をされるなどの妨害を受ける。
落合火葬場にも警官10数人が配置され、30分以上歩いて堺たちが到着すると、その場にいる者を全員検束して新宿署まで連行した。
検束の理由は、逆徒の火葬にこんなに大勢が参加するのは穏当ではない、ということ。
連行の前に、堺は、疲れきっていることを理由に、新宿署へ出頭しろというなら公費で人力車を用意してほしい、それでなければ一歩も歩けないと抗議したため、警察は数台の人力車を集める指示を出す。
人力車が揃うまで時間を稼いだ堺は、火葬する前に棺の蓋を開けさせて、親友の幸徳秋水と最後の別れをした。結局、新宿署に連行された堺らが解放されたのは深夜2時だった。
*
26日夕方にも、堺、大杉らは残った遺体引き取りに東京監獄に向かう。典獄と相談し、遺族と連絡のとれない遺体は監獄内に置き、菅野すがら4人の棺を引き取る。
この日もものものしい警戒で、落合火葬場に着くと、死体引取人になっていた堺の妻・為子だけを火葬場に残して、あとは全員が新宿署へ同行を求められる。
為子はたった1人で深夜の火葬場に残り、火葬が終わると骨を拾って、27日明け方、遺骨を抱いて帰宅。 12人の遺骨は引取人に渡され、それぞれの事情に応じて埋葬された。
だが、当局の干渉で、墓石を立てることを禁じられ、目印としてわずかに小石を置いただけの墓もあった。
*
堺利彦の遺家族慰問の旅
3月31日~5月8日、堺は遺家族の慰問の旅に出る。
■徳富蘆花
1月25日
・徳富蘆花、幸徳助命について思い悩み、「天皇陛下に願い奉る」を書き東京朝日新聞編集局長池辺三山に「至急親展書留」で送り新聞掲載を依頼。
これを送付後、前日処刑されたことを知る。
蘆花は「今更何をか言はん」と取消しの手紙を三山に出し、三山は意見も述べずにこれを返送。
*
これより前、21日、蘆花は兄蘇峰を通じて桂首相に幸徳減刑を願う(蘇峰は仲介したか、桂に願いが届いたか不明)。
22日、一高生の河上丈太郎・鈴木憲三が2月1日の講演依頼、蘆花は快諾し「謀反論」を予定。
*
「彼等も亦陛下の赤子、元来火を放ち人を殺すただの賊徒には無之、平素世の為人の為にと心がけ居候者にて、此度の不心得も一は有司共が忠義立のあまり彼等を虐め過ぎ候より彼等もヤケに相成候意味も有之、親殺しの企したる鬼子とし打殺し候は如何にも残念に奉存候」
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投稿者 黙翁 時刻: 22:44 0 コメント
ラベル: 大逆事件
2011年1月17日月曜日
明治44年(1911)1月18日 大逆事件判決 その日の石川啄木、平出修、堺利彦
明治44年(1911)1月18日午後1時10分~2時5分
大逆事件判決下る。
全員有罪。新田融11年、新村善兵衛8年。他24名は死刑。
*
翌1月19日
・天皇恩赦により、24名中12名が無期へ減刑。
*
高木顕明(46、大正6年6月24日獄中自殺)
崎久保誓一(27、昭和4年4月29日仮出獄、30年10月30日病没)
飛松与次郎(23、大正14年5月10日仮出獄、昭和30年9月病没)
坂本清馬(27、昭和4年4月29日仮出獄)
成石勘三郎(32、昭和4年4月29日仮出獄、6年1月3日病没)
岡本顚一郎(32、大正6年7月27日獄中病没)
岡林寅松(36、昭和6年4月29日仮出獄、23年9月1日病没)
三浦安太郎(24、大正5年5月18日獄中自殺)
武田九平(37、昭和4年4月29日仮出獄、昭和8年12月事故死)
小松丑治(36、昭和6年4月29日仮出獄、23年9月1日病没)
佐々木道元(23、大正5年7月15日獄中病没)
峯尾節堂(27、大正8年3月7日獄中病没)
【平出修】
1月18日
判決を聞いたあと、事件を担当した弁護士平出修は自身が書いてきた「大逆事件意見書」末尾の「後に書す」を書く。
*
平出修「刑法第七十三条に関する被告事件弁護の手控(大逆事件意見書)」末尾の「後に書す」。
*
「もし予審調書其ものを証拠として罪案を断ずれば、被告の全部は所謂大逆罪を犯すの意思と之が実行に加はるの覚悟を有せるものとして、悉く罪死刑に当って居る。
乍併調書の文字を離れて、静に事の真相を考ふれば本件犯罪は宮下太吉、菅野スガ、新村忠雄の三人によりて企画せられ、稍実行の姿を形成して居る丈けであって、終始此三人者と行動して居た古河力作の心事は既に頗る曖昧であった。
幸徳伝次郎に至れば、彼は死を期して法廷に立ち、自らの為に弁疏の辞を加へざりし為、直接彼の口より何物をも聞くを得なかったとは云へ、彼の衷心大に諒とすべきものがある。
大石誠之助に至りては寔(マコト)に之れ一場の悪夢、思ふに、事の成行きが意外又意外、彼自らも其数奇なる運命に、驚きつつあったのであらう。
只夫れ幸徳は、主義の伝播者たる責任の免るべからざるものあり、大石には証拠上千百の愁訴も之を覆すべからざるものあり、形式証拠を重んずる日本の裁判所は遂に彼等両人を放免するの勇気と雅量なかるべきを思ひしも、其余の二十名は悉く一場の座談、しかも拘引の当時より数へて一年有半前のことにかかり、其座談の内容が四五十人の決死の士あらば富豪を劫掠し、官庁を焼払ひ、尚余力あらば進んで二重橋にせまらんと云ふ一噱(イッキャク、笑い話)にも付すべきものであって、・・・」
*
「大逆事件意見書」の結びの部分は、
「大審院判官諸公は国家の権力行使の機関として判決を下し、事実を確定した。
けれども、それは彼等の認定した事実に過ぎないのである。
之が為に絶対の真実は或は誤り伝へられて、世間に発表せられずに了るとしても、其為に真実は決して存在を失ふものではないのである。
余は此点に於て真実の発見者である。
此発見は千古不磨である。
余は今の処では之れ丈けの事に満足して鍼黙(カンモク)を守らねばならぬ」
*
石川啄木日記1月3日の
「平出君の処で無政府主義者の特別裁判に関する内容を聞いた。
若し自分が裁判長だつたら、管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の四人を死刑に、幸徳大石の二人を無期に、内山愚童を不敬罪で五年位に、そしてあとは無罪にすると平出君が言つた。
またこの事件に関する自分の感想録を書いておくと言つた。」
に相当する。
*
【堺利彦】
1月18日
堺利彦(40)泥酔す
「泥酔した判決の夜」(黒岩比佐子「パンとペン」より)
堺利彦は大逆事件の検挙が続く前年(明治44年)は、幸いにも赤旗事件により監獄の中であり、事件に連座する事は免れた。
9月22日に監獄を出てからは、何度も東京監獄に行き、幸徳秋水らに面会し、差し入れをし、手紙を書いている。
「普段は温厚で、決して乱暴なことをしない堺が、その晩は酒を飲んで泥酔し、街灯や道路工事の赤ランプをけとはして壊していったというのだ。やさしい言葉をかけてくれたおでん屋の主人には、財布ごと金をやったともいう。」
石川三四郎によると以下のようであったという。
「石川によると、堺と大杉栄と石川の三人は、かなり酒を飲んで信濃町停車場で下車した。
殺気立っている堺は、停車場近くの交番に唾を吐きかけて小便をした。
白い湯気が上がり、交番の巡査も気づいたが、尾行についていた三人の刑事が耳打ちすると、巡査は見て見ぬふりをした。
さらに、道路を掘り返した所に赤いガス灯が三、四個並べであったが、堺はその一つをステッキで突いて壊した。
ガシャーンという激しい音がしたが、誰も何ともいわなかった。
尾行の刑事たちは、わなわなと震えている様子だったが、さらに堺は二つ目のガス灯を足でけとはして倒したという。
たまりかねた刑事が石川のそばに来て、堺を家まで送ってくれと哀願した。
絞首台で仲間が殺されていることを知っているので、刑事もあまりいい気分ではなかったのだろう、と石川は書いている。」
【石川啄木】
*
石川啄木日記より
一月十八日 半晴 温
今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であつた。午前に前夜の歌を清書して創作の若山君に送り、社に出た。
今日程予の頭の昂奮してゐた日はなかつた。さうして今日程昂奮の後の疲労を感じた日はなかつた。二時半過ぎた頃でもあつたらうか。「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「ああ二十四人!」さういふ声が耳に入つた。「判決が下つてから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告したゐた。予はそのまま何も考へなかつた。ただすぐ家へ帰つて寝たいと思つた。それでも定刻に帰つた。帰つて話をしたら母の眼に涙があつた。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考へ乍ら丸谷君を訪ねて十時頃まで話した。
夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」とかいてあつた。
[受信欄]牧水君より。
一月十九日 雨 寒
朝に枕の上で国民新聞を読んでゐたら俄かに涙が出た。「畜生! 駄目だ!」さういふ言葉も我知らず口に出た。社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によつてのみ得られる、さうして日本は代々社会政策を行つている国である。と御用記者は書いてゐた。
桂、大浦、平田、小松原の四大臣が待罪書を奉呈したといふ通信があつた。内命によつて終日臨時閣議が開かれ、その伏奏の結果特別裁判判決について大権の発動があるだらうといふ通信もあつた。
前夜丸谷君と話した茶話会の事を電話で土岐君にも通じた。
一月二十日 雪 温
昨夜大命によつて二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されたさうである。
東京は朝から雪がふつていた。午後になつても、夜になつても止まなかつた。仕事のひまひまに絶えず降りしきる雪を窓から眺めて、妙に叙情詩でもうたひたいやうな気分がした。
前夜書いた「樹木と果実」の広告文を土岐君へ送つた。それと共に、毎月二人の書くものは、何頁づつといふ風に自由な契約にしよう、さうでないと書くといふことが権利でなくて義務のやうな気がすると言つてやつた。
[発信欄]土岐君へ。
1月20日付け「大阪朝日新聞」社説
「今回二十六人の性行及び経歴を観るに、一も常識を有する人類として歯(よわい)すべきものにあらず、何れも社会の失敗者にして、余儀なく無政府共産主義等の名を藉(か)りて、其の欝を散ぜんとするに過ぎず。
何も皇室に恨みあるにあらず、唯(ただ)狂者が家長を恨み、道理を無(な)みし、自らも憤死せんとするに過ぎず。
・・・全く狂愚の沙汰なり。
彼等が死を期す固(もとよ)りなるぺし、之に死刑を宣告す、亦社会より黴菌を除去するもの、吾人は之をペストの掃蕩と同一視し、毫も之を仮借するの必要なしと信ず。
・・・之を杜(ふさ)ぐは所謂社会政策を行ひ、文明の余病を医し、其黴菌発生の源を断つにあり。
・・・故に其の黴菌の発生に対しては直に外科的裁断を加ふると同時に、平時は内科的医療を加ふるを当然なりとす。」
今から100年前の話である
*
パンとペン 社会主義者・堺利彦と「売文社」の闘い
投稿者 黙翁 時刻: 22:40 0 コメント
ラベル: 大逆事件
2010年9月11日土曜日
大逆事件への処し方(5) 赤羽一(巌穴)は千葉監獄で自死を選ぶ
赤羽一(号は巌穴)という明治期の社会主義者がいる。
彼は、大逆事件の大量検挙が始まる明治43年(1910)5月、「農民の福音」という本を出版、直ちに発売禁止の処分をうけ、朝憲紊乱罪で入獄する。
*
そして、大逆事件被告たちが処刑された翌年の明治45年(1912)年3月1日に、獄中自死するに至る。
但し、彼の獄中死については、自死、病死など、説は一定ではない。
*
例えば、大杉栄は、次のように書いている。
「千葉では、僕等が出たあとで直ぐ、同志の赤羽厳穴が何んでもない病気で獄死した。其後大逆事件の仲間の中にも二三獄死した。今後もまだ続々として死んで行くだろう。
僕はどんな死にかたをしてもいいが、獄死だけはいやだ。少なくとも、有らゆる死にかたの中で、獄死だけはどうかして免れたい。」(大杉栄「続獄中記」)
以下、赤羽一の簡単な年譜
*
巌穴赤羽一は、明治8 (1875)4月5日、長野県東筑摩郡広丘村郷原(塩尻市)の地主・問屋の長男(父赤羽無事、母京)として誕生。
*
16歳で家督を相続するが、病弱で農業に適さず、家督を弟の宜十に譲り、明治27(1894)年に上京。
翌明治28年、東京法学院(中央大学)入学する。
*
明治31年(1898)7月、東京法学院を卒業し「神戸新聞」記者となり、この時、内村鑑三に傾倒する。
*
明治32年1月、再上京し、島田三郎が主宰する雑誌「革新」、松村介石の雑誌「警世」の記者となる。
*
明治35年(1902)、「嗚呼祖国」を出版し渡米。
明治36年10月、在米邦人が経営する経済新聞「新世界」に入社、サンフランシスコ日本人福音会で社会主義者と交流する。
日露戦争に反対し、片山潜・岩佐作太郎らと桑港日本人社会主義協会を結成し幹事となる。
*
明治38年、帰国。
明治39年(1906)2月24日、結成された日本社会党に参加。
翌明治40年1月15日創刊の「日刊平民新聞」(4月14日廃刊宣言)編集委員となり、その後「京都日報」主筆となる。
*
明治40年8月28日、片山潜・田添鉄治・西川光二郎ら議会政策派(「社会新聞」派)が結成した社会主義同志会に参加。
*
翌明治41年2月16日、西川光二郎は、「社会新聞」より片山潜を除名し、社会主義同志会は、片山潜・田添鉄二派と西川光二郎派に分裂。
3月15日、西川らが「東京社会新聞」創刊すると、これに参画。筆禍で入獄する。
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明治43年(1910)5月、直接行動主義者の農民問題に対する総括見解とも言える「農民の福音」を出版。
*
明治42年、サンフランシスコ(桑港)領事館事務代理領事官補高橋清一から外務大臣小村寿太郎に送られた報告書に赤羽一の名がある
*
機密第六号
明治四十二年四月一日
在桑港総領事館事務代理
領事館補 高橋 清一
外務大臣伯爵小村寿太郎殿
当地在住本邦無政府主義者の近況に関し別紙報告書差進候に付、御一覧相成度此段申進候敬具
米国加州に於ける日本人社会党の状勢報告
目次
桑港日本人間社会党主義の萌芽
社会主義者演説会の嚆矢
安部磯雄の渡来Syuusui2
幸徳秋水の渡来
雑誌「革命」
天長節の不敬
近来の言動
「フレスノ」労働同盟
*
(中略)
*
社会主義者演説会の嚆矢
(*改行を施す)
越へて千九百四年(明治三十七年)日露戦争既に始まりて在留同胞社会は奮然として起ち、軍資献納等に狂奔し鶴首して捷報の到らんことを待ちつゝあるの際、春三月頃なりき日本人美以教会の一室に社会主義者演説会を開きたり、
其出席弁士は赤羽巖穴、岩佐作太郎及二三の輩なり
赤羽巖穴は明治三十年頃日本にありて数々に雑誌「日本人」に投書したることあり、
東京法学院にも二年程通学したるものにて、
渡米后は桑港に於て発行さるゝ日刊「新世界」に筆を執りたる事あり、
日本を去るの際『嗚呼祖國』を著はして東京に於て出版したるか、其中には日本の国体をも罵りたる意味あり、
平生「とるすとい」の著の英訳したるものを愛読したる故、宗教的博愛観より社会主義を取るに至りたるものにて、今日の普通の経済上の理論に根拠を置く社会主義とは大に其趣を異にしたり、
彼れは日露戦争の真最中に当つて、日本人福音会に於て「平和の撹乱者は誰そ」と題する演説をなせり、其の大意は
日露間の平和を撹乱して戦争状態に至らしめたるものは誰なる乎、
日本側の人は即ち曰く露国なりと、
左れと所謂漠然露国と云ふは露西亜皇帝を指すか聞く「つあー」は極めて意思弱くして多くの場合に於て皇后に支配せられ彼の和蘭「へーぐ」に開かれたる萬国平和会議の発議の如きは正に皇后に動かされたる結果也、
故に戦争の如きも他の悪臣の為めに制せられ止むを得すして起すに至りたるものに然らは「つあー」は戦争を起したるにあらすして其下にある野心家か起したるのみ、
又た翻て露西亜側より日本を見たる説は戦争は露国政府に非す、
日本か之を起したるにより止むを得すして之に應するのみと云ふも、偖其日本と云ふは日本天皇陛下を云ふか陛下は一視同仁にして決して戦争を好ます、
然らは日本の国民か、
否  国民は何事も知らす、結局戦争は野心ある政治家富豪上級の軍人、功名心を以て満ちたる新聞記者輩によりて起されたる也
憐むへきは一般下級の軍人と国民となり、彼等は一部少数野心家の犠牲となりて其心血を絞り、其生命を擲ちつゝあり、此点より見れは我等は戦争を非とすると同時に暗殺を是とす何となれは戦争は野心家か他人を犠牲とするものなれとも暗殺は直に其野心家を殺すものなれはなり云々
赤羽は名を一はじめと云ふ長野縣の産、巖穴と号す、千九百五年(明治三十八年)の夏七月母の病によりて帰朝し、後ち東京にありて島田三郎氏の家に食客たりし趣にて、又た漸くにして社会主義を捨てたりと傳へらる
*
(後略)
*
投稿者 黙翁 時刻: 15:35 0 コメント
ラベル: 大逆事件
2010年7月18日日曜日
大逆事件への処し方(5) 水上滝太郎の場合
被告らが処刑された明治44(1911)の3月、5月、7月の雑誌「スバル」に掲載された慶応大学生水上滝太郎の短歌
*
十二人処刑せられし翌朝も
塔上の子は青空を見る
*
囚はれて朝な夕なに倚る壁の
つめたさをもて白梅の咲く
*
幸徳はあはれなるかな小学の子も
誦らずる道を忘れぬ
*
首切の浅右衛の末を召し出でて
この首を切れかの首を切れ
*
けだものもひれ伏すと云ふ
大君に弓ひく者は子も屠るべし
*
幸徳はおろかなるかな命をば
勲章よりも価値なしとしぬ
*
逆徒等を首くくるまで掛けまくも
あやに畏き神にまします
*
かくかくに楽しく嬉しこの国の
叛逆人をすべて縊れば
*
与謝野鉄幹(コチラ)や佐藤春夫(コチラ)に劣らぬダイレクトな事件批判である。
水上滝太郎のプロフィールはコチラのサイトをご参考に。
①   ②   ③
投稿者 黙翁 時刻: 7:50 0 コメント
ラベル: 大逆事件
2010年7月3日土曜日
大逆事件への処し方(4) 佐藤春夫の場合 大石誠之助を悼む詩「愚者の死」
大逆事件の断罪があった明治44年(1911)3月、慶応大学生佐藤春夫(20)は、父の友人大石誠之助の死を悼む詩「愚者の死」を「スバル」に発表。
*
「千九百十一年一月二十三日
大石誠之助は殺されたり。
げに厳粛なる多数者の規約を
裏切る者は殺さるべきかな。
死を賭して遊戯を思ひ、
民俗の歴史を知らず、
日本人ならざる者
愚なる者は殺されたり。
「偽より出でし真実なり」と
絞首台上の一語その愚を極む。
われの郷里は紀州新宮。
彼の郷里もわれの町。
聞く、彼が郷里にして、わが郷里なる
紀州新宮の町は恐懼せりと。
うべさかしかる商人の町は欺かん、
---町民は慎めよ。
教師らは国の歴史を更にまた説けよ」
*
更に、翌年4月にも「病」、「街上夜曲」を発表
*
「病」
「うまれし国を恥づること。
古びし恋をなげくこと。
否定をいたくこのむこと。
あまりにわれを知れること。
盃とれば酔ざめの
悲しさをまづ思ふこと。」
*
「街上夜曲」
「×
号外のベルやかましく
電灯の下のマントの二人づれ
---十二人とも殺されたね。
---うん・・・・・深川にしようか浅草にしようか。
浅草ゆきがまんゐんと赤い札。
電車線路をよこざる」
*
明治41年(1908)
佐藤春夫が15歳、新宮中学4年生の頃、大石誠之助と沖野岩三郎は、新宮の町はずれにある大石誠之助の甥西村伊作所有の空家に新開雑誌閲覧所というのを設け、そこに文学雑誌・新聞・社会主義の著作をおく。佐藤春夫は学校帰りによくこれを利用。
*
西村伊作:
誠之助の兄の子、西村家に養子に入る。のち文化学院(コチラ)を創立、鉄幹・晶子は全面的に運営をバックアップする。
*
沖野岩三郎:
和歌山県の日高川に近い寒川村生まれ。極貧の境遇に育ち、13歳~17歳まで土方の労働生活を続ける。18歳で和歌山の中学予備校に入り、翌年、小学校の雇い教師となり、22歳で小さな小学校の校長になる。
明治37年29歳で明治学院神学部に学ぶ。日露戦争後の東郷大将の凱旋式の際、学校が学生を参加させようとしたときストライキでそれに反対。
明治39年、沖野岩三郎(31)、明治学院神学部を卒業、紀州の新宮教会の代理牧師として赴任。夏期の伝道旅行に行った縁で大石誠之助を知る。明治43年、試験に合格して正式の牧師となる。
秋水の新宮訪問の際には、所用のため歓迎の席に出られず、結果的に難を逃れる。
新宮グループが検挙された際、崎久保・峰尾の弁護は沖野が鉄幹を介して平出に依頼。
*
・この年は、4月に啄木が起死回生の上京を果たし、その直前の3月末には、新聞各紙が森田草平と平塚明子の事件を報道している。
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7月25日
幸徳秋水が新宮に大石誠之助訪問、8月8日まで滞在。秋水は故郷土佐で赤旗事件の報を聞き、急遽上京する途次であった。
幸徳は新宮滞在中に、熊野川の舟遊び、高木顕明が住職をしている浄泉寺での社会主義講演会、高木、成石、崎久保、峰尾らが集まった座談会に出席。
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「社会主義の巨頭幸徳秋水の来遊を歓迎して、新宮町の同志大石誠之助の発起によって大石の感化を受けて社会主義を奉ずるようになっていた町内の二、三の人々、たとえば真宗の僧侶や、川奥の山に働く青年やいかだ流しの若者、さては社会主義とは関係なく大石と親交のある町のインテリなど、大石の呼びかけに応じて集まり、季節柄熊野川に自慢の落鮎狩りを催して晩夏一夕の涼をとり、互に杯を交して親睦しつつ幸徳氏の旅情をねぎらい高話を聴こうと川舟を用意した。」
(佐藤春夫『大逆事件の思い出』(「新しき抒情」1968年所収))
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この年末には、誠之助が東京の秋水を訪ねている。
後の予審で、その時の「茶飲み話」の革命談議が大逆事件の共同謀議、誠之助が帰郷して東京のみやげ話をしたことが同志糾合とされ、このフレームワークは最後まで維持される。
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明治42年(1909)
年初より佐藤春夫の歌が「スバル」に採用されている。
2月には啄木の朝日新聞校正係入社(月給25円)が決まる。
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8月
鉄幹(37)が、生田長江(28)・石井柏亭(28)らと再び新宮に行く。佐藤春夫(18)はこの時鉄幹を知る。 明治39年10月にも訪問している。
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8月21日の文学講演会の際、佐藤春夫が前座として『偽らざる告白』の談話をし、それが物議をかもし9月初めに学校を無期停学になる。
講演内容は、自然主義文学の解説を、「一切の社会制度の虚偽を排し百般の因習と世俗的権威を無視した虚無観に立って天真のままの人間性と人間生活を見ようというのが自然主義の文学論」であると、「生意気な公式論の受売を二〇分かそこら」やった。(佐藤春夫『私の履歴書』(日本経済新聞社1957年)。
そして、この春夫の無期停学処分が、2年生~4年生の学校ストライキ騒動に発展する。
11月上旬、春夫は騒動を嫌って、生田長江を頼って上京するが、11月15日に新宮中学放火事件があり新宮に呼び戻される。
春夫にはストライキ・放火事件の首謀者の嫌疑がかかるが、春夫はこれに反論。
警察も手を引いたため、学校側は、停学処分を解除し早く卒業させる方針をとる。
翌1910年3月中学を卒業し、4月に再び上京。
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明治43年(1910)
大逆事件の年
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4月
佐藤春夫は、鉄幹に詩歌の直接の批評を受けるようにる。この年、慶応大学に入学。
鉄幹は春夫に、「きみは詩を作ったらいいだろう。歌を作る人はたくさんあるし、詩の方が面白くないのか」と言われ、春夫は詩をやりだしたという。
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両親は、春夫が一高~東大へ進むのを望み、春夫は7月上旬の試験まで受験勉強をすることになる。
生田長江の世話になり、下宿屋に落ち着いてから鉄幹を訪問し、同い年の堀口大学と知り合う。
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堀口大学:
明治25年、父堀口九万一と政夫婦の間に生れた。父はまだ東大法科の学生であったので、生まれた子供に大学という名をつけた。九万一は新潟県長岡の出身で、明治27年大学を卒業、外務省に勤め、間もなく京城に副領事として単身赴任。
明治28年春、鉄幹(23歳)が鮎川房之進に招かれ乙未義塾の教師として赴任。
また、この年10月は、日本公使三浦梧楼・公使館一等書記官杉村濬らの陰謀により閔妃暗殺事件が起り、鉄幹や堀口九万一も逮捕される。広島に護送されるが無罪となる。
堀口九万一は、明治28年に妻の政を亡くし、32年、ベルギー人と再婚、その間に2人の子をもうける。
大学は、明治41年長岡中学5年のとき、「スバル」9月号の吉井勇の短歌「夏のおもひで」に感動し、歌を作るようになり、42年9月から鉄幹の新詩社に入って歌を学ぶ。
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5月25日
大逆事件検挙始まる。
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誠之助が検挙された6月初め頃の新宮の様子。
「故郷に帰って来たのは、夏休みにしては早すぎる晩春初夏の候であった。折から町ではドクトルさんが検挙されて、高木顕真和尚や川奥のいかだ師の某などにも手がまわって、まだ連累があるらしいと、ドクトルさんの知人たちは、あの温厚なドクトルさんの何の罪かとあやしみながら町は恐怖に襲われていた」(佐藤春夫『わんぱく時代』1958年)
*
春夫の父豊太郎(医師)と大石とは、
「大石は緑亭の号を持って文学趣味も深く、この点でも父とは合い口であったし、同業のことではあり、父とは町政の政見をも同じくして町インテリとして実業派と称する一派にも反対していたので、何かと互いに相往来することの多い間がら」
であった。
幸徳の熊野訪問の際は、
「父は北海道の開墾に熱中しつづけて十勝止若の仮寓に暮していた」
ため欠席していて難を免れた。
もし参加していたら、父も死刑か無期徒刑になっていたに違いないと言う。
春夫の父は家宅捜索もされ、取調べから帰った時は、
「父は帰ると直ぐ、クロボトキンの『パンの略取』という本があったろうあれをさがしているのだがどうしても見つからないと、不安がって騒ぎ出した。それならば父の書斎から持ち出してわたくしが読みはじめていたところだから、そのことを言うと、早く持って来い。あれは大石から借りていた本であると急いで取り返して、それを金庫のなかへ隠した」。
と述べ、
さらに、熊野川の舟遊びで事を謀ったというのは、
「デッチ上げで、わたくしばかりでなく、口にこそ出さぬ町の人々は当時からみなそう思っている」
と言い切っている。
(佐藤春夫『大逆事件の思い出』(「新しき抒情」1968年所収)
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投稿者 黙翁 時刻: 14:51 0 コメント
ラベル: 大逆事件
2010年6月12日土曜日
大逆事件への処し方(3) 堺利彦の場合 売文社開業 「ここしばらく猫をかぶるの必要にせまられている」 ルソー生誕200年記念晩餐会・講演会開催
堺利彦は、大逆事件後の「冬の時代」を細々とではあってもとにかく生き抜くために、明治43年(1910)12月30日、幸徳秋水に面会した翌日の大晦日31日、四谷区南寺町の自宅に「売文社」を開業します。
文章代理業(女学校の卒業論文の代作、小学校新築落成の祝辞、法律書翻訳の下請けなど)を行うかたわら、浮世顧問の看板を出します。
そして、岡野辰之助が番頭格、高畠素之・荒畑寒村・大杉栄らが営業(自称技手)として、堺の家に住み込んで働きます(のち、百瀬晋・小原慎三・橋浦時雄などが参加)。
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大正2年(1913)年9月の堺利彦の文章。
「日本の社会主義運動は今まさに一頓挫の場合である。したがってすべての社会主義者はここしばらく猫をかぶるの必要に迫られている。ただしその猫のかぶり方には色々の別がある。ただ沈黙して手も足も出さぬのも一種の猫かぶりである。少し保護色を取って何かやって見るのも固より猫かぶりである。ところが僕自身として考えてみるに、僕がもし保護色をとるとすれば、一歩右隣に退却して国家社会主義に行くより外はない。しかし退却はイヤである。そこでやむを得ず沈黙しておる次第である。」(「近代思想」)。 
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そんな状況下、堺の面目躍如といえるのが、
大正元年(1912)年6月28日に開催された「ルソー生誕200年記念晩餐会・講演会」
である。
大逆事件以降初めて、社会主義者・自由主義者が一同に会します。
*
発起人は、堺利彦・高島米峰。
晩餐会は神田淡路町料亭、40余参加。会費無料(京都府須知町の岩崎革也が寄付)。
三宅雪嶺・伊藤痴遊・根元日南・内田魯庵・生田長江・上司小剣・片上伸・野依秀一・福田英子・西川光二郎・山口孤剣・樋口伝・荒畑寒村・安成貞雄・白柳秀湖・守田有秋・大杉栄・高畠素之・吉川守邦ら(在京中の社会主義者と彼らと席を同じくする事を厭わない自由主義者)。
夜7時より講演会。
高島米峰「新しき人ルソー」、生田長江「文明史上のルソーの地位」、樋口勘次郎「教育史上のルソー」、福本日南「天民の自覚」、三宅雪嶺「ルソーと現代」、堺利彦「二十世紀のルソー」。
神田美土代町青年会館。参会者200人。警官隊100余。平穏に終る。
*
三宅雪嶺:秋水遺書「基督抹殺論」・堺「売文集」の序文を書く。
高島米峰:「基督抹殺論」出版の丙午出版社社長、新仏教徒同志会。
野依秀一:「実業之世界」社長野依秀市。戦後は反共主義者。売文社最大の顧客、「実業之世界」編集・執筆、当時の野依名で発表された文章の多くは売文社員によるもの。大杉・寒村「近代思想」の最大広告主。
*
新聞報道は、
黒岩周六「婁騒誕生二百年」(「万朝報」6月28日)、「ルッソー二百年祭(国民文学欄)」(「国民新聞」6月28日)、松居松葉の談話「仏国の誇りとするルソーの碑」(「東京日日新聞」6月30日)のみ。
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雑誌では、「革命経典作家誕生二百周年」(「日本及日本人」6月1日)、同誌7月1日に加藤坧川「ルソーの片鱗」、磯部四郎「ルソーとその立場」、不繁舟「畸偉人ルソー」。三宅雪嶺の記念講演筆記「仏国革命の点火者ルソー」・久津見蕨村「ルソーとニイチエ」(「新仏教」8月号)。箕作元八「ルソーとその時代」、三宅雄一郎「ルソーの人物」、山田萃一郎「ルソーの二名著に現はれたる政治思想」、山岸光宣「ルソーと独逸文学」、浮田和民「ルソーの政治思想に含まれたる誤謬と真理」、塩沢昌貞「ルソーの経済思想」、片上伸「文学者としてのルソー」(「新日本」7月号「ルソー誕生二百周年記念」特集)。
これらは、新聞・雑誌責任者が記念会に関わりのあるもののみであった。
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ラベル: 大逆事件
2010年6月7日月曜日
大逆事件への処し方(2) 与謝野鉄幹 詩「大石誠之助の死」 平出修への被告弁護の依頼
大逆事件への処し方(2) 与謝野鉄幹の場合
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紀州派の頭目とされ死刑となった大石誠之助を悼む詩
明治44年(1911)4月1日
鉄幹は、「三田文学」に詩「誠之助の死」を発表。
*
大石誠之助は死にました
いい気味な
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある
然し
然し
わたしの友達の誠之助は唯一人。
わたしはもうその誠之助に逢はれない。
なんの
構ふもんか
機械に挟まれて死ぬやうな
馬鹿な
大馬鹿な
わたしの一人の友達の誠之助。
それでも誠之助は死にました
おお死にました。
日本人で無かった誠之助
立派な気ちがひの誠之助
有ることか
無いことか
神様を最初に無視した誠之助
大逆無道の誠之助。
ほんにまあ
皆さん
いい気味な
その誠之助は死にました。
誠之助と誠之助の一味が死んだので
忠良な日本人は之から気楽に寝られます。
おめでたう
*
(一部不適切な表現がありますが、原本の表現をそのままにしました)
*
彼なりに精いっぱいの怒りをぶつけている、と思います。
1月24日に誠之助は処刑されていますので、鉄幹は処刑直後に堪らず筆をとったんでしょう。
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被告崎久保誓一・高木顕明の弁護を平出修に依頼
大逆事件の検挙は、明治43年(1910)5月25日の明科で宮下太吉が、ついで新村忠雄が検挙されたことに始まります。
その後、6月1日に幸徳秋水が逮捕されます。
大石誠之助については、6月3日に家宅捜査がなされ、新村忠雄からの絵葉書2枚が押収されています。
6月4日から宮下太吉の予審が始まりますが、翌日5日に、松室検事総長と平沼民刑局長主導で、誠之助の起訴が決定され、誠之助は、この日午後11時30分に新宮署に拘引されます。
*
そして、7月、鉄幹は紀州派の被告崎久保誓一・高木顕明の弁護を平出修弁護士に依頼します。
依頼までの経緯は、被告崎久保誓一が新宮の牧師沖野岩三郎に相談し、沖野が知り合いの鉄幹に相談、鉄幹は親しい平出修に依頼したといいます。
紀州派の被告大石誠之助は、明星派歌人でもあり、鉄幹や沖野とも親しい間柄でした。
また、高木顕明、崎久保誓一は誠之助と親しく、沖野とも知り合いです。
更に、平出修の法律事務所の事務員和員彦太郎は、新宮出身の明星派歌人で、鉄幹・誠之助とも親しく崎久保、高木顕明の友人として、平出修に仲立ちか助言出来る立場にいました。
*
その後、平出修は、弁護に備えて鉄幹とともにしばしば鴎外を訪れ、思想問題の理解を深めています。
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のちに鉄幹は、この事に関連して、
「私の間接直接に知っている二三の被告のために、弁護士である平出君を弁護に頼んだが、研究心に富んだ平出君は私に伴われて行って一週間ほど毎夜鴎外先生から無政府主義と社会主義の講義を秘密に聞くのであった。」
と書いています(1928年)。
*
誠之助の大逆罪とは
明治41(1908)11月19日~23日、誠之助は幸徳の平民社に滞在します。
実は、10日頃に上京し医療器具・書籍など調達していました。
22日、「大石誠之助君を歓迎する集い」が開催されます。この時、誠之助は初めて新村忠雄と会います。
誠之助は、26日に帰郷しますが、裁判では、この間の誠之助の平民社滞在が天皇暗殺の共同謀議とされます。
幸徳・大石二人きりで、身を捨てて働く者が50人もいれば、二重橋に迫り錦旗革命のようなものができるとの「革命ばなし」をしたといいます。
被告奥宮健之「調書」では、幸徳が「二重橋をおそい番兵を追っばらって、宮城のなかにはいり、天子を擁して綸旨をうけようじゃないか」との「笑話」をしたといいます。
*
誠之助は27日に京都に着き、ここに2日間滞在します。歯科医山路二郎のところで歯に治療をし、宿舎柊屋に「日の出新聞」記者徳美松太郎が訪問したので、東京の土産話で「革命ばなし」をします。
そして、29日に大阪に着き、12月1日夕方には、食事後、旅館の裏の下座敷で茶菓をだして雑談しますが、ここでも東京の「革命話」の茶のみ話を話題にします。
出席者は武田九平・岡本頴一郎・三浦安太郎・岩出金次郎・佐山芳三郎で、裁判ではこれが「同志糾合」の策略とされます。
*
鉄幹は、明治39年10月と明治42年(1909)年8月に新宮を訪れ誠之助と交遊しています。
鉄幹という人は、若い頃は閔妃暗殺事件に絡み(関与の度合いは不明ですが)、またずっと後年の60歳の時、上海戦争での肉弾三勇士に感動し讃える歌の懸賞募集に応募(昭和7年3月)するなど、思想的には社会主義・無政府主義を理解する(できる)人ではなかったと思います。
決めつけは危険ですが、どちらかというと国権派~皇国思想の系譜に属する人であったんでしょうが、その鉄幹がこの事件の被告の弁護を頼むほどに、この事件のフレームアップぶりが明白であったということなんでしょう。
尚、平出修が弁護を担当した、高木顕明は、新宮市の浄泉寺の住職で、死刑判決後、翌日特赦で無期懲役に減刑され、秋田監獄に服役しますが、1914年6月に自殺します。特赦された12名中の5名は狂死、自殺、病死で獄死してます。
*
もう一人の崎久保誓一は、「牟婁新報」記者で、死刑判決後無期懲役に減刑され、秋田監獄で服役、昭和4年(1929)4月に仮出獄、1955年10月に死亡します。
投稿者 黙翁 時刻: 21:52 0 コメント
ラベル: 大逆事件
2010年4月25日日曜日
大逆事件への処し方 徳富蘆花 石川啄木 永井荷風 森鷗外 夏目漱石
一昨日(4月23日)の「朝日新聞」夕刊文化欄に、今年は「大逆事件百年」「日韓併合百年」、という記事があった。
明治43年(1910)から100年ということなんだ。
*
明治43年7月23日の「原敬日記」には、
「今回の大不敬罪のごときもとより天地に容るべからざるも、実は官僚派が之を演出せりと云ふも弁解の辞なかるべしと思う。」
とあり、原敬は、政府の言う「大逆事件」を「大不敬罪」と呼び、事件を「官僚派が之を演出」と謀略の正体を見破っている(但し、原はこれを材料に政府を攻撃することはしていない)。
*
石川啄木は、新聞報道を纏め、スクラップと手書きメモにより「日本無政府主義者隠謀事件経過及び附帯現象」を作成し、また友人の平出修弁護士(「明星」派歌人、鉄幹の依頼で弁護人となる)から密かに法廷資料を借りて書き写す。
これと並行して、彼は「'V' NAROD SERIES A LETTER FROM PRISON」「時代閉塞の現状」「所謂今度の事」「平信」などの詩、評論を書いている。
*
この頃の啄木の歌
今思へはげに彼もまた秋水の一味なりしと知るふしもあり
時代閉塞の現状を奈何(イカ)にせむ秋に入りてことに斯く思ふかな
地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつ、秋風を聴く
*
武蔵野の粕谷村に半ば隠棲生活を送っていた徳富蘆花は、明治44年1月18日の判決後、幸徳らの救援のために、兄蘇峰が経営する「国民新聞」や桂首相に手紙を出す。しかし、手紙が届いたのかどうか、全く何の反応も見られなかった。
次に、蘆花は、面識はないが同郷(熊本県)の「朝日新聞」池辺三山に、死刑確定者12人の助命を嘆願する「天皇陛下に願い奉る」を朝日に掲載して欲しいとの手紙を書く。
1月25日午前11時頃、女中を自宅の粕谷村から新宿に向かわせ、新宿から書留で、銀座滝山町の朝日新聞社の三山に送る。
しかし、この日午後3時ごろ配達された「東京朝日」に、死刑が前日執行されたとの記事が掲載される。
そして、蘆花は再び三山に手紙を書く。
「啓 正午に手紙を仕出し、午後の三時に東京朝日をひらきて幸徳等十二名が昨日すでに刑場の露と消えたるを承知仕候、今更何をかいわん、貴紙によりて彼等の臨終の立派なりしを知り、その遺書に接するを得たるを謝せんのみ、天下これよりますます多事なるべく候」
これに対し、三山は、返書を出そうと思っていたら第二の手紙がきた、彼らはいかにも恐ろしい者たちだが、彼らを殺してもまた恐ろしい感があるのは自分も同じだ、天下これより益々多事との話も同感だ、との返書を認める。
(三山は翌45年2月28日、心臓発作で没。49歳。)
*
明治44年(1911)2月1日、徳富蘆花、一高で「謀反論」講演
1月22日、一高生の河上丈太郎・鈴木憲三が2月1日の弁論部主催の講演依頼。蘆花は快諾し「謀反論」を予定。
*
謀反論 徳富蘆花
日本はまるで筍(タケノコ)のようにずんずん伸びて行く。インスピレーションの高調に達したといおうか。狂気といおうか - 狂気でもよい - 狂気の快は不狂気の知るあたわざるところである。誰がそのような気運を作ったか。世界を流るゝ人情の大潮流である。
誰がその潮流を導いたか。わが先覚の志士である。新思想を導いた蘭学者にせよ、局面打破を事とした勤王攘夷の処士にせよ、時の権力から云えば謀反人であった。
諸君、幸徳君等は時の政府に謀反人とみなされて殺された。が、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。「身を殺して魂を殺すあたわざる者を恐るゝなかれ」 肉体の死は何でもない。恐るべきは霊魂の死である。人が教えられたる信条のままに執着し、言わせらるるごとく言い、させらるゝごとくふるまい、型から鋳出した人形のごとく形式的に生活の安を偸んで、一切の自立自信、自化自発を失う時、すなわちこれ霊魂の死である。我等は生きねばならぬ。生きるために謀反しなければならぬ。古人はいうた、いかなる真理にも停滞するな、停滞すれば墓になると。人生は解脱の連続である。いかに愛着するところのものでも脱ぎ棄てねばならぬ時がある。それは形式残って生命去った時である。「死にし者は死にし者に葬らせ」基は常に後にしなければならぬ。幸徳らは謀反して死んだ。死んでもはや復活した。墓は空虚だ。いつまでも墓にすがりついてはなもぬ。・・・われらは苦痛を忍んで解脱せねばならぬ。繰り返していう。諸君、われわれは生きねばならぬ。生きるために常に謀反しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して。
諸君、幸徳君らは乱臣賊子として絞台の露と消えた。その行動について不満があるとしても、誰か志士としてその動機を疑いうる。西郷も逆賊であった。しかし今日となってみれば、逆賊でないこと西郷のごとき者があるか。幸徳等も誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんでその志を悲しむであろう。
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校長新渡戸稲造、弁論部長畔柳都太郎、譴責処分。蘆花には何の処分もなし。
河上丈太郎・河合栄治郎・矢内原忠雄や「新思潮」グループ(芥川・成瀬・菊池・久米・松岡ら)に影響及ぼす。
また、永井荷風は小説「花火」に中で、その頃の心中を吐露している。
明治四十四年慶応義塾に通勤する頃、わたしはその道すがら、折々市ヶ谷の通りで囚人馬車が五、六台も引き続いて日比谷の裁判所の方へ走って行くのを見た。わたしはこれまで見聞した世上の事件の中で、この折程いうにいわれない厭な心持のした事はなかった。わたしは文学者たる以上この思想問題について黙していてはならない。小説家ゾラはドレフュース事件について正義を叫んだため国外に亡命したではないか。しかしわたしは世の文学者とともに何もいわなかった。わたしは何となく良心の苦痛はたえられぬような気がした。わたしは自ら文学者たる事についてはなはだしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに如(シ)くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入をさげ浮世絵を集め三味線をひきはじめた。わたしは江戸末代の戯作者や浮世絵師が浦賀へ黒船が来ようが桜田御門で大老が暗殺されようがそんな事は下民の興(アズカ)り知った事ではない - 否とやかく申すのはかえって畏(オソレ)多い事だと、すまして春本や春画をかいていたその瞬間の胸中をばあきれるよりはむしろ尊敬しようと思.い立ったのである。(「花火」)
森鷗外は弁護士平出修に社会主義に対する考え方を教授し、公判を傍聴したと云う。
*
夏目漱石は、文部省からの博士号授与を辞退している(明治44年2月~4月)。
漱石の文部省への手紙。
「小生の意志を眼中に置く事なく、一図に辞退し得ずと定められたる文部大臣に対し、小生は不快の念を抱くものなる事を茲に言明致します。・・・小生の意思に逆って、御受けをする義務を有せざる事を茲に言明致します。・・・現今の博士制度は功少くして弊多き事を信ずる一人なる事を茲に言明致します」。
「博士問題の成行」(「東京朝日」)
「…一国の学者を挙げて悉く博士たらんがために学問をすると云ふ様な気風を養成したり、又は左様思われる程にも極端な傾向を帯びて、学者が行動するのは、国家から見ても弊害の多いのは知れてゐる。
……博士でなければ学者でない様に、世間を思はせる程博士に価値を賦与したならば、学問は少数の博士の専有物となつて、僅かな学者的貴族が、学権を掌握し尽すに至ると共に、選に洩れたる他は全く閑却されるの結果として、厭ふべき弊害の続出せん事を余は切に憂ふるものである。
……従つて余の博士を辞退したのは徹頭徹尾主義の問題である。」(「博士問題の成行」(「東京朝日」))
国家的恩典には浴さない、との姿勢は、大岡昇平の芸術院会員辞退や大江健三郎の文化勲章受賞辞退に引き継がれている。
*
漱石はその前、西園寺公望が文士を招待した時も、
「ほととぎす厠なかばに出かねたり」
と詠んで、これを断っている。