週刊金曜日「論争欄」から

2dan1_2 虚構の「福沢諭吉」論と「明るい明治」論を撃つ
  韓国「強制併合」から100年
 安川寿之輔・名古屋大学名誉教授に聞く
 歴史を歪めた丸山眞男と司馬遼太郎の「罪」

戦後のアカデミズムに君臨した丸山眞男と「国民作家」の司馬遼太郎。この二人による歴史偽造が厳しく問われなければならない。
--今年八月で、韓国強制併合一〇〇年を迎えます。しかし、いまだ朝鮮半島植民地化・アジア侵略の歴史についてこの国では、どこまで正しく認識されているのか疑問です。たとえば、侵 ・植民地化を先導・扇動した福沢諭吉が東大教授の丸山眞男によって人間平等を主張した「典型的な市民的自由主義」者と美化され、その虚構がまだ生きている。次に、朝鮮半島を奪うための日清・日露戦争を露骨に正当化した司馬遼太郎の「坂の上の雲」が、よりにもよって昨年からNHKで放映されました。--
 この二人の「罪」は、重いでしょうね。共通しているのは、近代日本の「二項対立史観」とでも呼べる発想です。丸山は福沢が「明治前期の”健全なナショナリズム″」を代表しているとみなし、「昭和前期の”超国家主義”」と対比しました。司馬は、「明るい明治」と「暗い昭和」です。両者とも、各「二項」が互いにどうつながっているのかについて説明がありません。丸山は福沢がすでに「暗い昭和」の時代を先取りしており、司馬は日清一日露戦争が本質的に一五年戦争と同じであったという、歴史的事実を無視しています。
--特に丸山の誤った福沢論については、先生が三冊の著書で完璧に論破しておられます。その影響もあってか、本誌で連載された『マンガ日本人と天皇』の原作者である雁屋哲氏も徹底的に福沢研究をやり、来春には「福沢諭吉こそが日本を一九四五年の破綻に追い込んだ元凶であり、……日本とアジア各国の関係を悪くしている張本人]であると断じた著書を刊行するそうです。--
 雁屋氏の認識は、基本的に十分正しいと思います。福沢がやったことは、朝鮮と中国に対する丸ごとの蔑視・偏見の垂れ流しであり、おっしゃったように侵略の扇動でした。明治国家が朝鮮への介入を強化していく一八八〇年代前半には、「朝鮮人は未開の民……極めて頑愚……凶暴」「支那人民の怯儒卑屈は実に法外無類」「チャイニーズ……恰も乞食穢多」「朝鮮国……人民一般の利害如何を論ずるときは、滅亡こそ・・・其幸福は大」などと発言している。福沢の侵略思想を表明しているのは、『脱亜論」が有名ですが一八八二年の「東洋の政略果たして如何せん」など沢山あります。そこでは「印度支那の土人等を御すること英人に倣ふのみならず、其英人をも窘(くるし)めて東洋の権柄を我一手に握らん」「日章の国旗以て東洋の全面を掩ふて、其旗風は遠く西洋諸国にまでも」などと、大英帝国に比肩する植民地獲得を主張しています。

差別・侵略主義者の福沢
--いったい、どこが”健全なナショナリズム”なのか。
一八七五年に朝鮮は「小野蛮国」で、「仮に我属国と為るも之を悦ぶに足らず」とし、『時事小言』の翌年の「朝鮮の交際を論ず」で、「朝鮮国・・・未開ならば之を誘うて之を導く可し、彼の人民果して頑陋ならば・・・武力を用ひても其進歩を助けん」と述べています。つまり、「文明」に誘導という名目で、武力による侵略か合理化されている。
--極めて危険な思想ですね。--
 同時に福沢は、戦前の「滅私奉公」や「一億玉砕」論の先駆者でもある。日清戦争か始まると、「日本臣民の覚悟」なる論説で、「我国・・・四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲(なげう)つは勿論、老少の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」を呼びかける。まさに、「暗い昭和]期の天皇制ナショナリズムの先取りそのものですよ。
--こうなるともう「思想家」というよりはアジテーターですが、特に感じるのは福沢の表現の汚さ、下劣さです。案外それは、逆に大衆受けしたように思うのですが。--
 おっしゃる通りです日清戦争や義和団戦争で日本軍が中国に出兵した際には、「チャンチャン……皆殺しにするは造作もなきこと」「支那兵の如き・・・豚狩の積り」などと罵る。挙げ句には「北京中の金銀財宝を掻き浚(さら)へて、・・・チャンチャンの着替までも引っ剥で持帰ることこそ願はしけれ。」と、略奪まで煽っています。「時事新報」は漫画や「漫言」にも力を入れていましたから、大衆にはアピールしたと思います。
--司馬の一番のひどさは、ぬけぬけと[坂の上の雲』について「事実に拘束されることが一〇〇パーセントにちかい」などと自分で公言している点でしょうね。--
あれは、逆に「始めがウソなら終わりもウソ」と言える小説ですよ。NHKか昨年一一月にスタートさせたドラマにもありましたが、福沢について「あしがこの世で一番偉いと思う人」などと主人公に言わせている。しかし、福沢は自由民権派から「法螺を福沢、嘘を諭吉」と侮られ、元外務省勤務の吉岡弘毅から彼のアジア侵略路線は「我日本帝国ヲシテ強盗国二変ゼシメント謀ル」道のりであり、「不可救ノ災禍ヲ将来二遺サン事必セリ」ときびしく的確に批判されていました。
--その点では福沢を美化・擁護した丸山など戦後の「進歩派」も同罪ですが、司馬によれば、日清・日露戦争は「祖国防衛戦争」なのだそうです。--
 司馬は日清戦争について「清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった」とし、あるいは「ロシアが・・・極東での侵略道楽をはじめたがために日露戦争がおこった」などと書く。これでは、どうして韓国強制併合にまで行き着いたのかという歴史経過が説明つきません。この小説には、「日本はこの(日露)戦争を通じ、前代未聞なほどに戦時国際法の忠実な遵奉者として終始」しただの、「日本政府の要人のほとんどか戦争回避論者であった」だのと、いくつも大ウソが出てきますね。

歴史の無反省が虚構を生む
『坂の上の雲』の致命的な欠陥は、日清・日露戦争を舞台としながらも、①江華島事件、日朝修好条規、壬午軍乱、甲申政変などの朝鮮開国から日清戦争に至るまでの諸事件②日清戦争のきっかけとなった朝鮮王宮占領や戦争中の旅順住民大虐殺、戦争後の朝鮮王后・閔妃殺害、雲林虐殺事件③三次にわたる日韓協約の武力を背景にした押し付けといった、「明るい明治」のイメージとは逆の数々の歴史上の犯罪的行為を、すべて意図的に隠している点です。それによって、朝鮮侵略と植民地化への道のりが日清・日露戦争であったという本質を見えなくしている。
--改めて丸山の福沢諭、司馬の日清・日露戦争論という壮大な虚構が、韓国強制併合に至る歴史を正しく理解する上で極めて大きな障害になっているという感を強くします。--
 やはり根底には、戦後において戦争責任と植民地支配責任の問題かしっかり論議されなかったという点があるのでしょう。ヒトラー、ムッソリーニと並ぶ世界の「三大巨悪」と呼ばれた昭和天皇の戦争責任も裁かれなかった。侵略した側は、侵略された側に立って考えるのは難しいのでしょうか。だからこそアジア蔑視・侵略扇動の福沢を丸山のように「民主主義の先駆者」として都合よく美化してみたり、司馬のように堂々と「日本は維新によって自律の道を選んでしまった以上・・・他国(朝鮮)の迷惑の上においておのれの国の自立をもたねばならなかった」などと方言する人物が、「国民作家」と呼ばれているのでしょう。
--韓国や北朝鮮の国民が、司馬のこんな記述を読んだら「まだ日本人はこんなことを言っているのか」と怒るでしょうね。しかも戦後の日本政府は、韓国強制併合の責任者である伊藤博文を紙幣に印刷して隣国の憤りを買いましたが、それにかわって、今もまだ福沢が最高額面紙幣に印刷されている。--
 日本軍による性奴隷(「従軍慰安婦」)問題に取り組んできた尹貞玉(ユン・ジョンオク)さんか、「日本の一万円札に福沢か印刷されているかぎり、日本人は信じられない」とつねづね語っていますか、当然でしょう。こうした発言は彼女だけではありませんが、問題は福沢がアジアの近隣諸国からそろってこのように批難・批判・憎悪されているのに、日本人かなぜそれを知らないかにあります、韓国強制併合一〇〇年を迎えた今、アジアと日本の歴史認識の深い溝と亀裂を埋める努力の必要性を改めて痛 感せざるをえません。
121  八月五日、長野県南牧村の山荘にて。聞き手・まとめ/編集部・成澤宗男  
 やすかわじゅのすけ 不戦兵士・市民の会副代表理事。本誌2000年9月8日号で「福沢諭吉を透かしてみれば」を執筆。著書に「福沢のアジア認識』「福沢と丸山眞男」など。(撮影/編集部)週刊金曜日 2010.8.27(812号)より転載 Kinkyoka
──────────────────────────────────────

上記の安川論文対し佐高信氏は週刊金曜日814号(2010.9.10)の「風速計」で次のように批判した。

敵から見たら(佐高 信)

八月二七日号の安川寿之輔(名古屋大学名誉教授)の「福沢諭吉、丸山眞男」批判は「敵から見たらどうなのか」という視点が決定的に欠けている。「独立自尊」ならぬ「孤立自尊」で生きていける学者だからだろうか。
そこで安川は丸山と司馬遼太郎を一緒にして批判しているのだが、たとえば三島由紀夫は安岡正篤への手紙の中で、丸山に「左翼学者」のレッテルを貼り、「大衆作家の司馬遼太郎」を「まじめな研究態度が見え」て心強いと讃えている。つまり、丸山を敵視する一方で、司馬をわが友とし、区別しているのである。
安川はきわめて単純に、福沢を「民主主義の先駆者」として美化したと丸山を断罪しているが、三島から「左翼学者」と難じられた丸山を全否定して、反ファシズムの隊列など組めるのか。大体、そうした悪罵を浴びながらも、たとえば安保闘争に参加した丸山の感じる風圧を理解せずして、統一戦線を組むことなどできないだろう。三島が安川を問題にすることはない。私が言いたいのは、標的にされる者に対して、敵以上に激しい侮蔑の言葉を投げつけて何の意味があるのかということである。

福沢に侵略主義と攻撃される面があったことを私は否定しない。しかし、同時に、戦争中に福沢は“鬼畜米英” の思想家として排撃されたことも忘れずに想起するのでなければ公平を欠くだろう。また、悪名高き「脱亜論」にしても、福沢はそれを唱えながら、朝鮮独立運動のリーダーである金玉均を、自らの身に危険が及ぶのを覚悟で助けた。
当時の日本の政府はそれを理由に福沢を捕えようとしたし、事実、福沢の弟子の井上角五郎は投獄され、福沢との関わりを白状せよと迫られている。どうしても学者は文献によって判断しがちなので、現実の行動を追うことはおろそかになる。また、実社会にもまれないので自分だけが正しいと独断的な主張を声高に繰り返すようになる。私は安川に “天上天下唯我独尊居士” というニックネームを進呈したいくらいだが、それではやはり、反ファッショの幅広い統一戦線は組めない。全否定ではなく部分否定、全肯定ではなく部分肯定のみが、マスターベーション的頑固な独善の殻を打ち破るのだと私は思う。
──────────────────────────────────────

この佐高信氏の批判に対し反論が掲載された。
論争 議論は理性的に 雁屋 哲
(かりやてつ・68歳、まんが原作者、エッセイスト)

 本誌八月二七日号に、成澤宗男氏による安川寿之輔・名古屋大学名誉教授に対するインタビュー記事「虚構の福沢諭告』論と明るい明治』論を撃つ」が掲載された。
 それについての文章を、本誌九月一〇日号に本誌の発行人である佐高信氏が、「風速計」に書かれた。
 八月二七日号のインタビュー記事の中で私の名前が上げられていたので、一言口を差し挟ませていただく。
 佐高信氏の書かれた文章は近来稀に見る文章である。氏が書かれた五〇行の文章のうち、一六行が、安川氏に対する根拠と論拠のない誹謗に使われている。一つの文章の三分の一近くを、そのような文章で占める例は他の雑誌・新聞では有り得るが『週刊金曜日』で目にするのは、創刊以来の定期購読者の私として初めてのことである。

 佐高氏は、安川氏が述べた「福沢諭吉の論は『文明』誘導という名目で武力による侵略が合理化されている」「アジア蔑視・侵略扇動の福沢を丸山のように『民主主義の先駆者』として都合よく美化したり……」 などの点に反論するべきであった。
 しかし、佐高氏は、三島由紀夫を持ちだして論点をずらしている。安川氏の議論の主要点を攻めないのでは議論にならない。

さらに佐高氏の文章の中には、見逃せない過ちが有る。
①安川氏は丸山眞男の福沢諭吉に関する評価を批判しているが、「敵以上の激しい侮蔑の言葉を投げつけて」はいない。学問上の批判と侮蔑は別物である。丸山眞男も安川氏の批判を侮蔑と取るほど幼稚ではなかっただろう。
②福沢諭吉と金玉均の関係について佐高氏には事実関係の誤認が有る。 金玉均は宮廷内での権力を争う「開化派のリーダー」であり、朝鮮独立運動とは関係がない。金玉均と朴泳孝は、自分たちが権力を握るために起こしたクーデター、甲申の変に失敗して日本に逃げた。
 この件に関しては福沢諭吉の弟子、井上角五郎が、次のように言っている。「金・朴の一挙については先生はただに、その筋書きの作者に止まらず、自ら進んで役者を選び役者を教え又道具立てその他万端を指図された事実が有る」 福沢諭吉は、金玉均に軍資金を与え、武器をそろえ、壮士という暴力団を助っ人として用意し、金玉均のクーデターを指図したのである。
 福沢諭吉が『脱亜論』を書いたのは、金玉均のクーデターが失敗した後である。『脱亜論』には自分が手助けをしたクーデターの失敗が色濃く影響している。佐高氏には、金玉均という人間と、『脱亜論』が書かれた時期と事情に対して誤認が有る。
 『週刊金曜日』では、他人を非難する際には、確実な事実を基に、誠実に論を組立てて行ってほしい。インターネットで根拠のない誹謗が飛び交っている現在、『週刊金曜日』は言論の鑑なるべきだ。
週刊金曜日 2010.10.1(817号)より転載 ──────────────────────────────────────
週刊金曜日2010.9.17(815号)の論争欄に次のような投稿があった。

福澤論吉はアジア侵略の先導者であり差別蔑視者であったのか
渡井啓之(わたい ひろゆき・72歳)
 八月二七日号の安川寿之輔氏へのインタビュー記事に、いささか戸惑いを感じた。安川氏の言説を鵜呑みにするが如くに成澤宗男氏が問いを向けているが、近年、井田進也氏をはじめとして福澤諭吉研究者たちが『時事新報』の社説や漫言が福澤の直筆であったかどうかを明らかにした上で、福澤の思想を研究しようとしていると管見する。
 かりに福澤が朝鮮蔑視者であったとして、数多くの朝鮮人(当時の言葉を使用)留学生を慶應義塾に招き、朝鮮の文明化(近代化)を支援しようとしたこと、八月二七日号一七ページにある「甲申政変」での金玉均ら亡命者を福澤が保護していたこと、また故・石坂巖慶應大学名誉教授によれば一八九六年から九八年一一月までの福澤の家計簿には朝鮮人のために約一万五〇〇〇円が支出されている記録があること(この貨幣価値は一説には現在の一万倍)、これらの事柄を、(これも法螺だ、嘘だといわれれば何ともいいようがないが)どう解釈すればよいのか。
 『井上毅と福澤論吉』の著者・渡辺俊一氏によると、「明治一四年の政変」で福澤の啓蒙的著作などは学校教育から一掃されてしまったとのことで、昭和一〇年代に正宗白鳥が、福澤など金儲けの親分ぐらいに思っていたが、その著作を読んでみてあまりに新鮮であることに驚いたという挿話を挙げている。明治以降戦前まで世間一般では福澤などあまり読まれていなかったのではないかというと、慶應出身の「福澤教」の諸氏には叱られるかもしれないが。

 確かに日清戦争には福澤は戦費にと一万円を寄付しており、その戦勝には歓喜したようであるが、そこにいたる経緯とその後の言動はどうであったのかを明確にして論じる必要があろう。
 安川氏が挙げている差別用語は『時事新報』に散見されるであろうが、その背景を探ることなしにただ字面だけを取り上げて批判することは(学者として)公平といえるであろうか。

 時と場所を弁えよというのが、福澤の言論のひとつの軸になっていたように思われる。したがって現実を直視することによって言論にかなりの曲折も見られよう。当時の自由民権運動に批判的であったが故に民権運動側からは「法螺を云々……」の惹句を投げかけられたであろう。
 しかしながら韓国併合一〇〇年の特集として、貴誌が表紙にその惹句を挙げ、「真意」と大見出しにするその真意とは何であるのだろうか。他誌に見られるような「売らんかな」のコピーとは考えたくない。 角田房子氏の『閔妃暗殺』でも福澤の肖像が一万円札に使用されていることに韓国の人たちが反感を抱いていると書かれている。
 日韓双方の国民が一方に偏らない正確な歴史認識を持つことが、対朝鮮・韓国へのわれわれの反省であることを含め、今後の双方の友好を深める道ではなかろうか。
──────────────────────────────────────Kinkyo1

*
やはり「福沢諭吉はアジア侵略の先導者であり差別蔑視者であった」

安川寿之輔(やすかわじゆのすけ・75歳)

 九月一七日号の渡井啓之の疑問に応えよう(敬称略)。
「井田進也をはじめ……『時事新報』の社説や漫言が福沢の直筆であったかどうか」を問題にした研究が「全面的な誤謬」であることは、私の『福沢諭吉の戦争論と天皇制論』(二〇〇六年、高文研、以下同様)で論証済みであり、井田からは直接の反論はなく、注文として「私の名前と方法を騙った・・・平山(洋)氏と並べて”井田・平山呼ばわりはどうか御勘弁ください”』という返信が来た(平山洋が同列同格以下という井田の見解は、共有)。

福沢の金玉均への支援・保護の真意については、一〇月一日号で雁屋哲が解明している通りであり、「日本の影響力と独占的な国家利益の拡大・深化のため」(岩波『日本近代思想大系』12)「侵略のための文化工作」(尹健次)という常識的な見解を、同上書でも紹介した。
 渡井は、明治一〇年代の儒教主義的な教育反動路線で「福沢の啓蒙的著作」が「一掃され」た事実が、福沢の進歩性の証左と誤解している。この時には加藤弘之の著作だけでなく文部省刊行の教科書までが排除された。

私の『福沢諭吉と丸山 眞男』(二〇〇三年)が解明したように、その儒教主義路線に反対した井上毅が教育勅語制定に中心的役割を果たし、福沢もその勅語発布に「感泣」して学校教育で勅語の「仁義孝悌忠君愛国の精神」の「貫徹」を要求する社説を、石河幹明記者に書かせたのである。「儒教主義と開明政策とは、国家富強という目的の為に、相互に妥協」(石田雄)させられたというのは、明治史の常識である。

 『時事小言』で「無遠慮に其地面を押領」する「強兵富国」のアジア侵略路線を提示した福沢は、翌年の論説で「朝鮮国……未開ならば之を誘ふて之を導く可し、彼の人民果して頑陋ならば……武力を用ひても其進歩を助けん」と主張して、「文明」に誘導するという名目で武力侵略を合理化した。そのため福沢は、私の『福沢諭吉のアジア認識』(二〇〇〇年)が解明したように、朝鮮・中国が「文明」への誘導を必要とする「野蛮」な国であることの根拠として、「頑冥倨傲」「無気力無定見」「チャンチャン」「恰も乞食穢多」等という両国への蔑視・偏見・マイナス評価を、一斉にたれ流すことになったのである。渡井は、以上の私の三著はどれも読まずに、定説視されてきた過去の虚構の「丸山論吉」神話の見解を並べているだけの様子で、これでは「論争」になりようがない。

 「日本の一万円札に福沢が印刷されているかぎり、日本人は信じられない」(尹貞玉)という福沢への反感は、アジア諸国に共通の批判・憎悪である。そのアジアの視座から福沢諭吉の思想と司馬遼太朗の虚構の「明るい明治」像を、一度しっかり見直すことなしには、渡井の期待する「今後の双方の友好を深める道」は開けないであろう。
週刊金曜日 2010.10.29(821号)より転載

───────────────────────────────────────────────
(週刊金曜日 2010.11.26 (825号)  61ページから)

投書 安川寿之輔氏の平和論は公的か   山田文男(57歳)

 本誌八月二七日号のインタビュー記事とー〇月二九日号「論争」で安川寿之輔氏の主張を初めて読んだが、現代日本の平和運動の抱える根本的な弱点が浮かびあがった立論だと思うので、一言述べたい。
 私は安川氏が厳しく批判した福沢諭吉を詳しく知る者ではないが、彼が『瘠我慢の説』の冒頭で「立国は私なり、公に非ざるなり」と言ったことは承知している。しかしこの一言で、私は福沢があの時代の最も誠実なリアリストであったことを認めざるをえない。立国が「私」であるとは、それが実は下品なことであると言うに等しい。確かに下品なことをやっていかない限り、一国の自己保存、すなわち立国は覚束ない。それは世界が正にホッブス的な世界であるから、つまり万国が万国に対して狼であるような世界であるからに他ならない。そのような世界では、誰であっても先に喰わなければ、自分が喰われてしまう。これはわが国だけでなく、万国にとって立国の基本的な条件である。かつての日英同盟も現代の日米安保も一匹狼日本がより強くなる為の徒党であって、わが国が確実に喰う側に廻る為の工夫にすぎない。そのような立国は、福沢の言う通り「私」であり、決して「公」ではない。

 真に公的なものとは恒久平和、すなわち人類の平和を実現すること以外にはない。これは誰にも分かる当り前の道理である。だから本当の問題は、それを如何にして個々の人間の実践的な課題にするのかという点にのみある。確かに福沢はそれについて語ることはできなかった。しかし彼の生きた荒々しい帝国主義の時代に、彼が恒久平和を自己の実践的な課題として位置付けられなかったからと言って非難するのは、明らかにフェアーではない。それは彼がカントでなかったからと言って非難するようなものだ。

 だが、立国という「私」に留まり続けた彼は、後年『福翁百話』の中で自分は一匹の蛆虫にすぎないとも語っている。私は、この蛆虫であることの徹底的な自覚だけが、人間を真に実践的な「公」への取り組みに駆り立てると思っている。しかしこの自覚が日本国民全体の自覚となるには、昭和二〇年の敗戦を待たねばならなかった。戦後における九条の国民的受容は、その結果に他ならない。日本国民は、そのことを知る為に高い代償を支払ったのである。
 にもかかわらず現代日本の平和運動は、私にはどうみても実践的なものであるとは思えない。それはこの運動が、自分は蛆虫にすぎないというあの徹底的な自覚を忘却してしまった人々の、私事になっているからだと思う。まさしくその為に、安川氏の平和論は結果的に福沢ばかりでなく、私たちの父祖すべてをも全否定するものとなっている。そのような平和論が国民の共感を広く得ることは有りえない。
───────────────────────────────────────────────
(週刊金曜日 2010.12.17 (828号)  63ページから)

「投書」にお応えします       安川寿之輔(75歳)

 一一月二六日号で、山田文男さんから名指しの批判を頂いたので応えたい。投書は、「先に喰わなければ、自分か喰われてしまう……荒々しい帝国主義の時代」に〈強兵富国〉のアジア侵略路線を先導した「最も誠実なリアリストであった」福沢諭吉を批判するのは誤りである、という福沢擁護の論旨である。
 同じ時代に福沢の路線を「我日本帝国ヲシテ強盗国二変ゼシメント謀ル」道のりであり、「不可救ノ災禍ヲ将来二遺サン事必セリ」と的確に批判した吉岡弘毅を私が紹介したのは、『小国主義』(田中彰著、岩波新書)の「歴史の水脈」の可能性の示唆であった。台湾出兵に猛反対して海軍卿を辞職した勝海舟も、一貫して「日清韓三国提携」を主張し、日清戦争と戦後処理に反対し、「この次敗けるのは日本の番だ」と予告していた。足尾銅山「鉱毒問題は日露問題よりも先決」と主張した田中正造は、「海陸軍全廃・無戦」の山田さんの期待する〈「公的」な平和論〉を主張していた。

 山田さんは、一転して福沢の『福翁百話』の「蛆虫」論について「蛆虫であることの徹底的な自覚だけが、人間を真に実践的な『公』への取り組みに駆り立てる」という、いささか難解な読み込みをしているが、この場合の福沢の「人生は見る影もなき蛆蟲に等しく、朝の露の乾く間もなき……間を戯れて過ぎ逝くまでのこと」という蛆虫人生論は、「自国の利益のみを謀て他(国)の痛痒を顧みざる・・奪はざれば奪はれ、殺さざれば殺さるるの獣劇を演ずる……獣界の戯」(『福翁百余話』)を前提にしていることを、山田さんは見落としている。

 私が丸山眞男の福澤論評価に厳しいのは、福沢が「帝国主義者」になった理由を、「思春期に達した子供が非常に悪い環境に育ったために性的な方面で、他と不均合にませてしまった様なもの」(「明治国家の思想」)というお粗末なたとえ話で、福沢の「強盗国」路線をもっぱら帝国主義的な国際環境のせいと弁明するだけで、福沢白身が侵略戦争を主導・先導した事実に対する思想家としての主体的責任(「思想内在的な問い」)を、丸山が一切不問に付しているからである。つまり丸山の二項対立史観は、〈明治前期の「健全なナショナリズム」と昭和前期の「超国家主義」〉のコントラストを強調するばかりで、なぜ両者の落差が生じたのかという切迫した問題、両者の連続性という重要な問題の考察を一貫して不問に付しているのである。
──────────────────────────────────────


(参考)佐高信さん、安川氏に反論不能だからといって肩書の名誉教授に八つ当たり。「名誉教授は不名誉教授」