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(上)漁民移住し「愛媛村」 2010年08月14日
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現在の韓国・泗川市三千浦。丘の手前に日本風の屋根を持つ平屋が並ぶ=2006年10月撮影、提供・日本コリア協会・愛媛 |
◇6カ所、敗戦で無に帰す
韓国の建物の隣に、日本風の平屋が並ぶ。
韓国・泗川市三千浦。かつて、ここに「愛媛村」と呼ばれた村があった。 日韓併合(1910年)の翌1911(明治
44)年ごろから、愛南町内泊の漁民が集団移住して開拓した。 「愛媛県史」によると、当初24家族93人が入植。 全戸が均等に出資してサバ漁を営み、
収益で共同用地や田畑を買い、半漁半農の村づくりを進めた。
移住漁民について詳しい愛媛大学法文学部の伊地知紀子准教授(43)は「日本が植民地支配を展開するにあたり、政府は兵
站(へいたん)基地としての役割を見すえ、移住漁村の建設を奨励した」 と解説する。 1908(明治41)年に韓国漁業法が発布され、韓国居住者に限っ
て、日本人にも漁業権が認められた。これを受け、県は移住漁村の建設を奨励。 1915(大正4)年までに、朝鮮には愛媛村を含め県内から6カ所の移住漁
村ができ、県が家屋や土地の購入に補助金を出した。
移住時の愛媛村の指導者だった山本桃吉氏の孫、利治さん(72)=愛南町御荘平城=の手元には当時の文書が残る。「相つ
ぎ窮民のきわまり骨をとおす。 しかしてその企画する所の対馬海峡の漁労もまた失敗に帰し、損害すでに巨額にのぼれり」。 桃吉氏の功績をたたえ、大正時
代に現地に建てられた碑文の原文の一節だ。 漁業が軌道に乗らず、巨額の損害を出し、その損害を埋めるために桃吉氏は、郷里・愛媛の田畑や山林の多くを売
り払った。 利治さんは「日本には帰らず、朝鮮に骨を埋めるつもりだったのでしょう」 と推測する。
戦後65年がたち、戦争体験を語れる人は年々減り、人々の記憶も薄れつつある。 「日韓併合」 から100年でもある今年、戦時下の朝鮮半島で過ごした人の記憶をたどった。
利治さんは桃吉氏が亡くなった翌年の1937(昭和12)年、村で生まれた。 「家は広大な田畑を持ち、
蔵は常にコメでいっぱいだった」と振り返る。 朝鮮人の小作人を何人も雇っており、父・治郎一さんは日本と朝鮮を行き来し、貿易業を営んでいた。 家の前
の海には浮かんだ小島は、干潮時には歩いて渡れ、魚釣りなどを楽しんだ。
国民学校2年の時、日本が戦争に負けると状況は一変する。 警察官や教員を父に持つ日本人の級友は「すぐに帰らないか
ん」と村から消えた。 帰国後、近くの村では日本人が襲撃されたとのうわさも聞いたが、利治さんは「1カ月ほど現地にとどまったが、黄色と赤の腕章を着け
た朝鮮人が屋敷で寝泊まりをし、暴徒から守ってくれていたようだ」 と振り返る。
家族は1945(昭和20)年10月、約1カ月かけて宇和島港に到着した。 帰国直前には、利治さんの家族は1万数千坪以上の田畑を耕作していたが、「持ってかえれたのは着替えと体だけだった」。
伊地知准教授は移住漁民を「国の無理な領土拡大のために翻弄されたとも言える。 国は当初は移住を奨励したが、その後の資金投入はなく、敗戦で移住者の生活が無に帰した」という。
三千浦は豊かな漁場であるとともに、島々も浮かぶ景観の美しい場所だった。 利治さんは、「沖に浮かぶ小島には、引き潮の際には歩いてわたれた。 一度は帰ってみたい」 と話す。 だが、現地に建てられた桃吉氏の石碑は、戦後、壊されたままだ。(中田絢子)
(下)差別つづり自ら糾弾
2010年08月15日
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藤本文夫さん=松山市久万ノ台 |
◇元兵士、後ろめたさ抱え
65年前のあの日のことを、松山市の藤本文夫さん(84)は今も鮮明に覚えている。
池に子どもが落ち、もがいている。朝鮮人だ。助けようと近づいたとき、届いたばかりの召集令状が頭をよぎった。「自分までおぼれたら、出征できない」。助けずに立ち去った。「召集令状は重かった。でも、日本人なら助けていたかもしれない」
藤本さんは1926(大正15)年4月、現在の韓国の釜山市中心部から北へ30キロほど離れた慶尚南道金海郡の村(現・釜山市)で生まれ
た。家は、十数戸の朝鮮人集落の中心にあり、父は朝鮮人を何人も雇って農業を営んでいた。幼い頃は、朝鮮人の子どもたちと一緒にコマやたこ揚げなどで遊ん
だ。
通った大沙里尋常小学校の生徒は日本人ばかり。30人に満たなかった。近くに朝鮮人の子が通う倉庫のような建物の学校があった。100人以上が通っていた。「格差に気づき、自分の中に差別意識が生まれた」
日中戦争が激しくなるにつれ、藤本さんは、日本人は「大和民族・神国の民」と思うようなった。創氏改名について「日本人はひきょうだ」と言う朝鮮人の友人を糾弾した。
1943(昭和18)年、朝鮮総督府鉄道局に就職。日本人より低い賃金を、朝鮮人の友人が恨むのを聞いても「当然」と思った。召集され、大邱で、戦線への訓練を受けているさなかに終戦を迎えた。19歳だった。
9月半ばに村に戻ると、家族は帰国していた。近所にいた朝鮮人の中に、幼なじみの女性がいた。女性は、藤本さんに好意を寄せていた。家で
雇っていた長老格の朝鮮人に「帰国前に優しい言葉をかけてあげるべきだ」と言われたが、女性に何も伝えられなかった。「私も好きでした。しかし、相手が朝
鮮人、という差別意識にとらわれていた」
帰国後、国鉄に就職。労働組合で演劇活動にのめり込んだ。格差や差別による社会の矛盾をテーマに台本を書く中で、自分の過去に後ろめたさを感じた。退職後、「植民地統治で傷ついた人たちとつながりを持ちたい」。韓国を3度訪問したが、心が晴れるわけではなかった。
19歳までの体験を、昨年から文章につづり始めた。「書くことで自らを糾弾しようと思った」
松山市の井上妙子さん(88)も、23歳のときに釜山から引き揚げた体験などをつづっている。現地で教員だった井上さんは、終戦から2カ月後の10月15日、母と弟と、衣類や食料を詰めた荷物を抱え、闇船という非正規の船に乗り込んだ。
一晩中嵐に揺られたあげく、機関が故障して停船。死を覚悟したという。翌朝、通りがかった船に助けられ、佐賀県・唐津港にたどり着いた。
「あのころは死ぬことをなんとも思っていなかった。周りには、戦死や行方不明になる人が何人もいたから」。ペンをとったのは、孫たちに体験を伝えたいと考えたからだ。「だれも戦争に行かなくていい。それだけで今の日本はありがたい」(中田絢子)