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2010年7月31日 (土)

福沢諭吉と『坂の上の雲』─「暗い昭和」につながる「明るくない明治」 安川寿之輔(名古屋大学名誉教授)

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福沢諭吉と『坂の上の雲』─「暗い昭和」につながる「明るくない明治」
2009年12月5日 東京文化会館
<「韓国併合」百年と『坂の上の雲』を考える会>結成総会
           安川寿之輔(名古屋大学名誉教授)

この報告は、日本の近代を<「明るい明治」と「暗い昭和」>に分断する司馬遼太郎のNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』が、丸山眞男の<明治前期の「健全なナショナリズム」と昭和前期の「超国家主義」>の二項対立史観を踏襲したものであることを確認したうえで、『坂の上の雲』や戦後日本の丸山眞男流の福沢諭吉研究では、なぜ「明るい明治」=<明治前期の「健全なナショナリズム」>が、天皇制軍国主義の「暗い昭和」=<昭和前期の「超国家主義」>につながったのかが理解できないという問題の提起です。つまり、『坂の上の雲』批判は、丸山眞男の福沢諭吉研究の誤った二項対立史観批判にまで進み出なければならないという問題提起です。

Ⅰ <坂の上の雲>は「丸山諭吉神話」で始まった─「一身独立して一国独立す」の致命的な誤読

日本の近代史を、<「明るい明治」対「暗い昭和」>に分断する司馬遼太郎「史観」のNHKの「空前の超大型ドラマ」<坂の上の雲>「少年の国」(11月29日分)は予想・懸念していた通り、「丸山諭吉」神話で始まった。
理由は、原作『坂の上の雲』①(文春文庫、以下『坂』と略称)では、三人の主人公(秋山好古・秋山真之・正岡子規)の秋山好古に、正岡子規が日本で「だれがいちばんえらいとお思いぞな」と尋ねて、好古が「あしは会うたことがないが、いまの世間では福沢諭吉というひとがいちばんえらい」と答えていたからである(159頁)。つまりこれは、司馬遼太郎が丸山眞男に倣って、「明るい明治」日本を代表する思想家を福沢諭吉と把握していることの表明である。

まず、司馬の<「明るい明治」対「暗い昭和」>は、近代日本を<明治前期の「健全なナショナリズム」対昭和前期の「超国家主義」>ととらえる丸山眞男の誤った二項対立史観(別の表現では、<明治前期のわきまえのある「国家理性の認識」対昭和前期の限界を知らない「皇道の宣布」>)を、分りやすい表現に言い換えて踏襲したものである。問題は、<明治前期の健全なナショナリズム>を代表する思想家として丸山眞男が解明した福沢諭吉像が、近年では門下生も認める虚構の「丸山諭吉像」であるという事実である。
すでに安川は、Ⅰ『福沢諭吉のアジア認識─日本近代史像をとらえ返す』(2000年)、Ⅱ『福沢諭吉と丸山眞男─「丸山諭吉」神話を解体する』(2003年)、Ⅲ『福沢諭吉の戦争論と天皇制論─新たな福沢美化論を批判する』(2006年、すべて高文研)の3著において、戦後日本の福沢諭吉研究に圧倒的な影響を及ぼした丸山の福沢研究が、壮大な虚構の「丸山諭吉」神話であることを論証し、丸山門下生を含めて、基本的に反論のない原状にある。しかしながら問題は、とりわけ日本のマスコミが、その「丸山諭吉」神話の圧倒的な影響下にあるため(Ⅲの序章2参照)、定説化された丸山の福沢諭吉像が、日本社会において、いまなお不動の位置をしめているのである。

29日のテレビドラマでは、丸山諭吉神話をふまえた脚本により、秋山好古が弟の真之に「淳、これはの、あしがこの世の中で一番偉いと思うとる人の本じゃ」と言って、『学問のすすめ』第3編(!)を見せて、「誰じゃ?」「福沢諭吉、ゆう人じゃ。福沢先生の書いたこの『学問のすすめ』にはの、こう書いてある─『一身独立して一国独立す』」「人、ひとりひとりが独立して、初めて国家が独立できる、そういう意味じゃ・・・。あしはな、金を貯めて、東京に出て学問をして、いつかこの人に会う。それが夢じゃ」という問答になっている(NHKスペシャルドラマ・ガイド『坂の上の雲』第1部104頁)。
 これは、主人公たちが「世界史上の奇蹟といわれる近代国家」(『坂』⑧94頁)を成立させた栄光の「明るい明治」の第一人者・福沢の思想を代表するのが、『学問のすすめ』第3編の「一身独立して一国独立す」であることを示したものである。ところが、日本の近代を、「明るい明治」と「暗い昭和」に分断する“国民作家”司馬遼太郎「史観」は、司馬が自認しているように、もともと「暗い昭和」とはつながりようのない、日露戦争までの日本に「贔屓(ひいき)」した、誤った「明るい明治」の歴史像を前提にしたものである。「明るい明治」という贔屓の歴史像の端的な誤りが、テレビにおける丸山流の明治前期の「健全なナショナリズム」を象徴する定式「一身独立して一国独立す」の引用である(これは、『すすめ』第3編の目次の二つの見出し「国は同等なる事」「一身独立して一国独立する事」の後者の引用である。目次自体の国語的な意味は「一身が独立して、一国も独立する」という意味である。問題は、第3編において福沢自身が主張している「一身独立」の中味が、常識的な「一人一人が独立する」という国語的な意味とは大幅に異なっていることです)。

 決定的な問題は、この定式「一身独立して一国独立す」が記載されている『すすめ』第3編において福沢自身が主張している「一身独立」「自由独立の気風」の中身は、秋山好古が理解した<人、ひとりひとりの「独立」>や丸山眞男のいう「個人的自由」「個人の自由独立」「近代的人間類型」などとはおよそ関係なく、「国のためには財を失ふのみならず、一命をも抛(なげうち)て惜むに足ら」ない国家主義的な「報国の大義」のことである(これを皆さんは「個人の自由独立」や「民権の確立」の主張と解釈できますか?それどころか、この福沢の「報国の大義」は、「暗い昭和」の時代の日本で求められた「滅私奉公」「献身没我」の「愛国心」のことである)。2000年刊行のⅠの序章2において、丸山諭吉神話の誤謬の代表格であるこの丸山流の解釈は「福沢諭吉研究史上最大の誤読箇所である」と指摘して以来、誰からも反論のない現状である。
  ※ つまりテレビ『坂の上の雲』は誤謬(ウソ)で始まっている。日本には「始めよければ終わりよし」という格言がある。『坂の上の雲』に関しては、この格言は「始めがウソなら、終わりもウソ」に訂正されなければならない。

問題を鮮明化するために、あえて先取り的に指摘しておこう。司馬遼太郎は、大胆に日清戦争の「勝利の最大の因は、日本軍のほうにない。このころの中国人が、その国家のために死ぬという観念を、ほとんどもっていなかったためである。」(②119)、つまり日本の勝因は日本兵が「国家のために死ぬという観念」をもっていたから、と書いている。この記述と対比するなら、『すすめ』の定式「一身独立して一国独立す」は、明治日本が「自国の独立」を達成するためには、司馬が日清戦争の勝因という「国家のために死ぬという観念」、つまり滅私奉公の「愛国心」「報国の大義」の必要性を、福沢が(日清戦争の20年以上も前に)先駆的に主張していたものと解釈することが出来るのである。

 ただし、この大胆な解釈の妥当性は、『文明論之概略』終章において、日本の近代化のためには、「先づ・・・自国の独立を謀り、(「一身独立」などの)其他(の課題)は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と公約していた福沢が、結局は、生涯、貴重な「一身独立」の課題との取り組みを放擲したまま、日清戦争を迎えると、「我国・・・四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽し、・・・財産を挙げて之を擲(なげう)つは勿論、老少の別なく切死して人の種の尽きるまでも戦ふの覚悟・・・内に如何なる不平不条理あるも之を論ずるに遑(いとま)あらず。」という、(およそ「健全なナショナリズム」ではない)天皇制ナショナリズムと「昭和十年代を先取りした滅私奉公」の「一億玉砕」論(高史明)の社説「日本臣民の覚悟」を書くに到ったという事実によって初めて確認される問題である。

Ⅱ 初期啓蒙期の福沢の思想は「明るい明治」の「健全なナショナリズム」ではない─「暗い昭和」の「訓練された政治的白痴」
初期啓蒙期の福沢は、三度の洋行体験をふまえ、国際関係の現実は「傍若無人」、「パワ・イズ・ライト」の関係にあると認識していた(丸山諭吉神話では、国と国とは平等)。この弱肉強食の国際関係認識を前提にして、福沢は日本の近代化の綱領的方針を提示した『文明論之概略』終章において、「今の日本国人を文明に進るは此国の独立を保たんがためのみ。」として、「自国の独立」確保を至上・最優先の民族的課題に設定した。その際の福沢の優れていた点は、「人類の約束は唯自国の独立のみを以て目的と為す可らず」と書いて、「一国独立等の細事に介々たる」態度は「文明の本旨には非ず」という、「文明論」についての正当な基本認識を表明していたことである。つまり、「自国独立」最優先は明治維新当初の「今の世界の有様を察して、今の日本のため・・・今の日本の急に応じて」提起した限定的な課題設定であることについて、彼は「此今の字は特に意ありて用ひたるものなれば、学者等閑に看過する勿れ。」と、繰り返し注意を喚起していたことである。

以上の断りを踏まえた上で福沢は、維新当初の日本では「先づ事の初歩として自国の独立を謀り、(「一身独立」のような)其他(の課題)は之を第二歩に遺して、他日為す所あらん」と述べていたのである。(福沢が『概略』の著述を思い立ったのは1874年3月頃であり、定式「一身・一国独立」の『すすめ』第3編を執筆・刊行した73年12月には『概略』の近代化構想とその手順は既に意識されていたものと推測可能)。
啓蒙期福沢の思想理解における丸山眞男の致命的な誤りは、福沢本人が「自国独立」を最優先課題に設定して、「一身独立」の課題は「第二歩に遺して、他日為す」と公約しているのに、丸山が定式における「一身独立」と「一国独立」の二つの課題は、この定式において「民権論と国権論の内面的連関というものが、最も鮮かに定式付けられ」ており、「個人的自由と国民的独立、国民的独立と国際的平等は全く同じ原理で貫かれ、見事なバランスを保っている。それは・・・日本の近代ナショナリズムにとって美しくも薄命な古典的均衡の時代」と、結論づけた事実である。

丸山の誤りは、既述したように、『すすめ』第三編の定式における「一身独立」が「自国独立」最優先の課題に見事に照応して、「国のためには財を失ふのみならず、一命をも抛て惜むに足ら」ない「報国の大義」であり、この定式内では「一身独立」や「民権の確立」の課題はなんら論じられていないことの無視である。信じ難い事実であるが、服部之総、遠山茂樹、家永三郎、岩井忠熊、加藤周一など安川のⅠ以前のすべての先行研究者が、丸山のこの決定的な誤読に追従した。
福沢本人が「一身独立」の課題は「他日為す」と明確に(後述するように、結局は生涯)先送りしているのに、「一身・一国独立」が「見事なバランス」だの「美しくも薄命な古典的均衡」云々と解釈するのは、お粗末の極みである。加えて福沢は、「自国独立」確保最優先は、「今の世界の有様」に即した限定的な課題設定であり、「自国独立」確保は「文明論の中に於て瑣々たる一箇条」という優れた歴史認識を提示して、「此今の字は特に意ありて用ひたるもの・・・学者等閑に看過する勿れ。」と断っているのに、丸山らがそれを「等閑に看過」したことは、思想家福沢に対して失礼の極みである。

 以上により、「一身独立」の課題を保留し先送りした「一身・一国独立」論が「健全なナショナリズム」の定式であるはずのないことは明らかである。しかし問題は、「暗い昭和」につながる「明るい明治」の虚構は、丸山による「一身独立」論の誤読に止まらないことである。「天は人の上に人を造らず・・・」という『すすめ』冒頭の句と『すすめ』の内容が思想的に乖離している(だから福沢は「・・・と云へり。」と伝聞態で表現したが、丸山はそれを無視)という重要な事実を先駆的に指摘した小松茂夫は、「ファシズム期における日本軍国主義と一般国民の意識」についても貴重な論稿を残した(『権力と自由』勁草書房)。

「暗い昭和」期の日本人男性は、労働者・農民だけでなく知識人までが、召集令状一枚によって、自己の生命と人生をいかようにも左右される、そういう国家に生きていたにもかかわらず、むしろだからこそ、そういう巨大な力をもつ<国家>とは一体なにか、それはいかなる原因や理由によって存在するのかという、「<国家>の本質、起源、存在理由」への「問いは、ひとびとの意識の上に、絶えて浮ば」なかったという衝撃的な事実を、小松茂夫は解明した(この研究成果との出会いが、ぼくが『十五年戦争と教育』の執筆を思い立った決定的な動機である)。「暗い昭和」期に日本人が国家の存在理由を問えなかったという事実に照応するのが、またもや福沢の『すすめ』における国家観である。この場合も、丸山は「福沢において政府或は政治権力の存在根拠は・・・基本的人権の擁護にあった」と把握しているが、これも丸山諭吉神話そのものである。

福沢はアメリカ独立宣言を自ら翻訳し、「其通義(基本的人権)とは人の自から生命を保し自由を求め幸福を祈る類」と、「生命、自由、幸福追求」の基本的人権を宣言し、さらに「人間に政府を立る所以は、此通義を固くするための趣旨にて、・・・政府の処置、此趣旨に戻るときは、則ち之を変革し或は之を倒して、・・・新政府を立るも亦人民の通義なり。」と訳出して、政府の存在理由、存在根拠が基本的人権の擁護であり、政府がその存在理由に反した場合は人民に「抵抗権・革命権」のあることも正しく訳出・紹介していた。
 問題は、福沢がその独立宣言に倣って、『すすめ』第2編において日本の人権宣言を行った場合には、「その人々持前の権理通義・・・如何にも同等にして一厘一毛の軽重あることなし。即ちその権理通義とは、人々その命を重んじ、その身代所持の物を守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。」とあって、アメリカの人権宣言と対比すると、「自由」が「面目名誉」に変えられているだけでなく、決定的な問題点として、政府が国民の基本的人権を擁護する組織であるという肝心の政府の存在理由を紹介・主張せず、したがって基本的人権から「抵抗権、革命権」も意図的に除外している事実である。

 以上の国家構想に対応して、福沢は、「今、日本国中にて明治の年号を奉ずる者は、今の政府に従ふ可しと条約(社会契約)を結びたる人民なり。」(『すすめ』第2編)という明白な虚偽を前提にして、「国法は不正不便なりと雖ども、・・・これを破るの理なし」(第7編)「小心翼々謹て守らざる可らず」(第2編)という一方的な国法への服従・遵法と、「国を護るための入用(税金)を払ふ」(第7編)自発的な納税の義務を説いていた。つまり「自由」と「抵抗」の自然権を否定し政府の存在理由を不問に付した福沢は、明治政府への国民の服従の内面的自発性を喚起するために、社会契約思想を換骨奪胎したのである。

 以上のような福沢の数々の限界・制約は、既述した「一身独立」の課題は「第二歩に遺して、他日為す所あらん」と公約していた『概略』における日本の近代化の綱領的方針と対比することで、容易に説明がつく。つまり初期啓蒙期の福沢思想を代表する定式「一身独立して一国独立す」は、弱肉強食の帝国主義時代の国際関係のもとで、至上最優先の「自国の独立」確保をまずアプリオリな前提課題に設定して、国家や政府の存在理由は問わないまま、人権宣言としては自由権や抵抗権を欠落させて、「国のためには財を失ふのみならず、一命をも抛て惜むに足ら」ない国家主義的で非合理な「報国の大義」を要求したものである。

河上肇の<天賦人権・人賦国権>のヨーロッパ型に対比すると、啓蒙期福沢のナショナリズムは、<天賦国権・国賦人権>の日本的近代のパターンを代表する国権主義的ナショナリズムそのものであった。つまりそれは、「人民主権」の理念を欠き「ブルジョア・デモクラシー」の諸原理との結びつきをもたないナショナリズムであり、丸山眞男のいう「健全なナショナリズム」とは、およそ無縁のものであった。
もちろん、だからといって福沢のエセ「一身独立」論が「暗い昭和」の滅私奉公論に、また政府の存在理由を問わない『すすめ』の国家構想が、「暗い昭和」期の日本人が国家の存在理由を問えない「訓練された政治的白痴」(小松茂夫)に直接つながった、と言おうとしているのではない。なにしろ、福沢自身が「一身独立」の課題は「第二歩に遺して、他日為す所あらん」と公約していたからである。

Ⅲ 中期福沢の保守化─強兵富国のアジア侵略路線と「愚民を籠絡する」天皇制の選択
はじめに─『民情一新』を転機とする保守化
 自由民権運動と遭遇した福沢は、他日「一身独立」の課題にも取り組むという啓蒙期の貴重な公約に背を向け、1875年「国権可分の説」で「今日は政府も人民も唯自由一方に向ふのみ。」という明白な虚偽を主張するとともに、「無智の小民」「百姓車挽」への啓蒙の断念を表明し、翌年から「宗教の必用」を説き始め、以後、生涯で百篇をこす論稿による「馬鹿と片輪に宗教、丁度よき取合せならん」という下層民衆のための宗教教化路線にのめりこんでいった(福沢美化論者は無視)。
 また、1878年の『通俗民権論』『通俗国権論』の同時刊行で民権陣営を「無頼者の巣窟」と非難した福沢は、翌年の『民情一新』において、モデルの欧米「先進」諸国が社会主義・労働運動で「狼狽して方向に迷う」という新たな現実の認識も加わることによって、81年『時事小言』と翌年の『帝室論』における歴史的現実主義の「清濁併呑」路線の選択により、彼は不動の保守思想を確立した。これは、自国独立確保は「瑣々たる一箇条」にすぎぬという優れた歴史認識の上に「一身独立」を「他日為す」という啓蒙期の唯一貴重な公約の放棄であり、日本「人民」と『概略』読者への福沢の明白な裏切りである。

① 強兵富国のアジア侵略路線
「一身独立」を放擲する保守思想の確立は、必然的にアジア認識の転換と「(「富国強兵」ではない)強兵富国」の対外強硬路線、「外の艱難を知って内の安寧を維持する」権謀術数的な「内危外競」(田口卯吉)路線の選択を、福沢にもたらした。82年壬午軍乱、84年甲申政変を好機到来と迎えた彼は、強硬な軍事介入を主張し、自らクーデターの武器提供まで担った甲申政変では、天皇「御親征」と北京攻略まで要求する余りに激烈な開戦論のため、福沢の「時事新報」紙は発行停止処分さえ受けた。

『時事小言』で「無遠慮に其地面を押領」するアジア侵略路線を提示した福沢は、翌年の「朝鮮の交際を論ず」で、「朝鮮国・・・未開ならば之を誘ふて之を導く可し、彼の人民果して頑陋ならば・・・武力を用ひても其進歩を助けん」と主張して、「文明」に誘導するという名目で侵略を合理化した(ブッシュ米大統領のアフガン侵略開始時の「野蛮に対する文明の戦争」も同じ口実)。つまり朝鮮が「頑陋」であることが、武力行使の容認・合理化につながるという帝国主義的な「文明の論理」である。その結果彼は、今や一斉に朝鮮・中国への丸ごとの蔑視・偏見・マイナス評価の垂れ流しを開始した。それが両事変前後の「朝鮮人は未開の民・・・極めて頑愚・・・凶暴」「朝鮮人・・・頑迷倨傲・・・無気力無定見」「支那人民の怯懦卑屈は実に法外無類」「チャイニーズ・・・恰も乞食穢多」「朝鮮国・・・人民一般の利害如何を論ずるときは、滅亡こそ・・・其幸福は大」等という発言である。最後の発言は、「面目名誉」を最大の人権と日頃主張する福沢が、朝鮮人は英露の支配下で「終身内外の恥辱」に耐えよという侮蔑的な社説であり、時事新報(意外に知られていないが、後継紙が現在の産経新聞)は、またまた発行停止処分をうけた。

85年「脱亜論」は、その直截的な題名から福沢のアジア観として突出して有名である。しかし、「残刻不廉恥を極め」る朝鮮中国が「数年を出でずして亡国」となるのは必然として、「脱亜」日本が「西洋の文明国と進退を共にし」て、両国の帝国主義的「分割」への参加を提言したその内容は、この時期の福沢にとっては、むしろ不動の国策となっていた。
そのためアジア侵略を目ざす当時の福沢は、同時代人からは「法螺を福沢、嘘を諭吉」(「日の出新聞」)と嘲られ、とりわけ吉岡弘毅(元外務権少丞)からは、「我日本帝国ヲシテ強盗国ニ変ゼシメント謀ル」福沢の道のり(つまり、日本の強兵富国の近代化路線)は、「不可救ノ災禍ヲ将来ニ遺サン事必セリ」というきびしくかつ適切な批判(南京大虐殺・原爆投下・東京大空襲・沖縄戦等の悲劇の予告)をうけていたのである。つまり、福沢は戦後日本の丸山諭吉神話で一躍有名となり、最高額面紙幣の肖像にまでなるが、福沢を直接見聞していた明治の同時代人は「法螺を福沢、嘘を諭吉」と見抜いていた。明治と戦後の日本人のどちらの目が節穴なのか、興味ある疑問である。

② 「愚民を籠絡する」欺術としての神権天皇制の選択
啓蒙期の冷静で批判的な天皇制認識から見れば、明らかな虚偽の「帝室・・・に忠を尽すは・・・万民熱中の至情」「帝室の尊厳は・・・今後千万年も同一様」という主張を始めた福沢は、82年『帝室論』において「国の安寧」維持のためには、日本国民が「数百千年来君臣情誼の空気中に生々したる者なれば、精神道徳の部分は、唯この一点に依頼する」外ないと主張して、『概略』終章の主張通りに、彼は「権力偏重」社会の「惑溺」の総動員に着手した。そして啓蒙期とは逆に彼は、今や「我帝室の一系万世・・・此一点は皇学者と同説」とまで表明した。

 福沢は、天皇制を「愚民を籠絡するの一欺術」と嘲笑する「書生輩」は「政治の艱難に逢はずして民心軋轢の惨状を知ら」ない者と批判し、国会開設後の「政党軋轢の不幸」に備えて、「人心収攬の中心と為りて国民政治論の軋轢を緩和」する「万世無欠の全壁」の帝室の存在が必要であり、「我日本の人民は・・・此中心に輻輳し、内に社会の秩序を維持して外に国権を皇張す可きものなり。」と主張した。つまり福沢は、まさに「愚民を籠絡する」欺術(分かりやすく表現すると「馬鹿な国民を誑かすための騙しの政治装置」)としての神権天皇制を主体的に選択したのである。天皇制の本質を「愚民を籠絡する」欺術と見抜いた「具眼の識者」福沢が、『帝室論』冒頭で「帝室は政治社外のもの」と宣言したのは当然である。「国会開設」によって「政党の争も随分劇し」くなることが予想されるから、「帝室が左を助る歟、又は右を庇護する」事が「得策に非ざる」は明らかであり、帝室は日常的には「政治社外に在」って「遥に政治の上に立て下界に降臨」することが必要であった。

この天皇制構想の意図・狙いについて、6年後の88年『尊王論』において福沢は、帝室が「政治の熱界を去ることいよいよ遠ければ、其尊厳神聖の徳いよいよ高くして、其緩解調和の力も亦いよいよ大なる可し。・・・其功徳を無限にせんとするが故に政治社外と云ふのみ。」と、「政治社外」論の真意を率直に書いていた。つまり彼にとって、天皇制の「経世の利益」「功徳」こそが判断基準の鍵であり、したがって、戦時のように「一旦緩急アレハ」(教育勅語)、天皇制の「功徳を無限」に発揮するために、天皇が直接「政治社内」に出て、(日清戦中の広島大本営での明治天皇のように)戦争の先頭に立つことは当然であった。 

 この天皇制の巧妙な使い分けの構想について福沢は、「古学流儀の忠勇義烈」主義を「正宗の宝刀」に例えて、日清戦中に分かり易く説明していた。「兵馬戦乱の時節には無上の宝にして易ふ可きものなしと雖も、兵乱ここに収まれば宝刀は鞘に収め、・・・宝刀利なりと雖も深く鞘に納めて抜かざるは治世の武士の嗜みなり、・・・我輩が平生に沈黙したるも(日清開戦の)今日を待て大に発せんが為めなり。」と。

Ⅳ <坂の上の雲>が隠し描かない福沢(=日本)のアジア侵略の思想的歩み
 秋山好古が「一番偉いと思うとる」福沢諭吉の思想に即して、丸山諭吉神話と『坂の上の雲』によって隠されている、「明るくない明治」日本の実際の歩みを列挙的に並べよう。福沢は近代日本最大の保守主義者であり、彼が「暗い昭和」時代の見事な思想的先駆者であったことが、以下12点にわたって解明・論証されるであろう。

① 帝国主義強国日本の未来展望ゆえの「外交の序開き」の戒め
アジア侵略の強兵富国路線を提起した『時事小言』の翌1882年の連載社説「東洋の政略・・・」において福沢は、「印度支那の土人等を御すること英人に倣ふのみならず、其英人をも窘(くるし)めて東洋の権柄を我一手に握らん」「日章の国旗以て東洋の全面を掩ふて、其旗風は遠く西洋諸国にまでも・・・」と書いて、大英帝国に比肩する帝国主義強国日本の未来像を描き出していた。
したがって、日清戦争に勝利した晩年の福沢は、「今や隣国の支那朝鮮も我文明の中に包羅せんとす。畢生の愉快・・・望外の仕合」、「国光を世界に耀かして大日本帝国の重きを成したる・・・洸として夢の如く」、「私は自身の既往を顧みれば遺憾なきのみか愉快な事ばかり」と、能天気に自からの人生を総括していたが、その壮大な未来展望ゆえに、「実を申せば日清戦争何でもない。唯是れ日本の外交の序開き」に過ぎないと戒めていた。

② 「満蒙は我国の生命線」発言の先駆者─手前勝手な帝国主義的「大国主義」
多くの歴史書では、アジア太平洋戦争期のキャッチ・フレーズ「満蒙は我国の生命線」論の原型は、1890年の山県首相の「外交政略論」とされている。しかしそれより3年も早い87年の論説「朝鮮は日本の藩屏」において福沢は、「今日本島を守るに当りて、最近の防禦線を定むべきの地は必ず朝鮮地方」と、先駆的に主張していた(福沢の日本=「東洋の盟主」論は、「大東亜共栄圏」の「盟主」思想の先駆)。
 『坂』も、この福沢発言は見落としているが「十九世紀末、二十世紀初頭の文明段階の中では、朝鮮は日本の生命線ということになるのである。」(『坂』③68頁)、「日本は維新によって自立の道を選んでしまった以上、すでにそのときから他国(朝鮮)の迷惑の上においておのれの国の自立をたもたねばならなかった。」(『坂』③173頁)と、手前勝手で自国中心的で帝国主義的な「大国主義」のアジア侵略路線を自明の前提にしている。

 しかし、日本の最初の対外出兵となる台湾出兵に反対(福沢は「支那をして五十万テールの償金を払はしむるに至たるは・・・祝す可し」と歓迎)して海軍卿を辞職した勝海舟が、生涯「日清韓三国合従」を主張したように、同時代の日本人にも「小国主義」やアジア連帯を主張する者はいた。『坂』批判の愛媛グループ(「記念館」問題を考える会)が指摘するように、帝国主義の時代であったから、アジア侵略が必然だったのではなく、「日本の外に、・・・日本の行動の環境として帝国主義が存在したのではなく、日本の行動そのものが、帝国主義を展開させる原動力の一つとなった」(木畑洋一)ととらえなければならない。

③   帝国憲法=教育勅語を賛美し「思想、良心、信教の自由」弾圧に加担─「日の丸・君が代」強制への道
大日本帝国憲法を「完全無欠」「完美なる憲法」と手放しで賛美し、教育勅語の発布を「感泣」をもって歓迎し、学校で「仁義孝悌忠君愛国の精神」を貫徹させるよう要求する社説を書かせた福沢は、翌年の内村鑑三の教育勅語拝礼忌避事件を契機とする「教育と宗教の衝突」大論争、つまり近代日本黎明期の「思想、良心、信教の自由」の弾圧・蹂躙という事態に、論説主幹福沢は、完全沈黙を通すことによって、神権天皇制の確立に寄与した。これは、「日の丸・君が代」強制に象徴される、今なお「一身独立」を達成できない現代日本の精神的風土に道を開いた福沢その人の罪業である。
福沢は、憲法発布翌日からの連載社説で、日本人は「数百千年来長上に服従して其制御を受け」てきた歴史によって、「従順、卑屈、無気力」の性格・気質を「先天の性」として形成しているので、この「順良」な性向をむしろ「我日本国人の殊色」であると賛美し、この国民性に依拠して以後の近代日本の資本主義的な発展を楽観的に展望したのである。

④ 「滅私奉公・一億玉砕」の「日本臣民の覚悟」─「暗い昭和」の戦意高揚論そのもの
日清戦争を迎えると、福沢は挙国一致の戦争協力を呼びかける激烈な論説「日本臣民の覚悟」を書いた。福沢は「我国・・・四千万の者は同心協力してあらん限りの忠義を尽くし、・・・事切迫に至れば財産を挙げて之を擲つは勿論、老少の別なく切死して人の種の尽きるまで戦ふの覚悟」を呼びかけ、「我輩の目的は唯戦勝に在るのみ。戦争に勝利を得て・・・吾々同胞の日本国人が世界に対して肩身を広くするの愉快さへあれば、内に如何なる不平不条理あるも之を論ずるに遑あらず。」と主張した。
福沢の主張がアジア太平洋戦争期の戦意高揚の「戦争煽動論」と同一であることは、在日作家・高史明が四千万「人の種の尽きるまで」を「一億玉砕」の思想と表現し、この論説筆者を誤認定した井田進也が「内に如何なる不平不条理あるも・・・」を「昭和十年代を先取りした滅私奉公論」と非難していることで、明らかであろう。この論説において、福沢が国民の挙国一致の戦争協力を、天皇への「忠義」の名で求めたのは当然であった。しかし、丸山諭吉神話では、福沢のそれは「忠君ナショナリズムとはまったく異質」と主張しているので、その誤りを論証しておこう。

日本人にとって、世界に「比類なき・・・皇統連綿」「神聖無比の」天皇に「忠を尽すは・・・万民熱中の至情」というのが福沢の「尽忠」論であり、戦争を直接担う兵士の場合は「帝室の為に進退し、帝室の為に生死するものなりと覚悟を定めて、始めて戦陣に向て一命をも致す」「天皇陛下万歳!」の皇軍精神であった。『帝室論』以来、「我大元帥陛下の威霊」「御聖徳」を、「三軍の将士は皆御馬前に討死の覚悟を以て」「出陣の日は即ち死を決するの日」と説いてきた福沢が、開戦を迎えて「正宗の宝刀」の「古学流儀の忠勇義烈」を唱え「人心の結合を謀」ったのは当然のことであった。

  福沢天皇制論についての丸山眞男のもう一つの致命的な誤りは、『帝室論』の「政治社外」論を「その論の核心は一切の政治的決定の世界からの天皇のたなあげ」と誤読したことである。福沢自身は、『尊王論』において「其政治の熱界を去ることいよいよ遠ければ、其尊厳神聖の徳いよいよ高くして、・・・其功徳を無限にせんとするが故に政治社外と云ふのみ。」と、(日常における)「政治社外」論の真意を率直に書いていた。
したがって、「一旦緩急」時の持論の「正宗の宝刀」として、1884年甲申政変や日清戦争時に天皇の海外出陣の「御親征」発言をしたのは自然であり、93年の政府の軍備拡張の「伝家の宝刀」として、有名な「軍艦勅諭」を発して「軍国主義強化のためにこそ、天皇の直接的な政治関与が行われた。」(遠山茂樹)時、福沢が「感泣の外なき」ことと歓迎したことも当然であった。加えて彼が、戦争という最大の政治の舞台で、広島大本営の天皇の戦争指導を絶賛し、「忠義」の名で戦争協力を呼びかけたのは、天皇の最大の政治的利用と参与そのものである。戦後民主主義の時代に福沢のこれほど単純明快な「愚民籠絡」の天皇制論を誤読・免罪・擁護した丸山眞男の戦後責任は余りにも大きい。

⑤ 朝鮮王宮占領・旅順虐殺事件・閔妃暗殺・雲林虐殺事件─南京虐殺事件への道
『坂』は「明るい明治」「明治の栄光」を描き出すために、朝鮮王宮占領・旅順虐殺事件・閔妃(王妃)殺害・雲林虐殺事件という日清戦争の不義・暴虐を象徴する全事件の存在そのものを無視するだけでなく、「日本はこの(日露)戦争を通じ、前代未聞なほどに戦時国際法の忠実な遵奉者として終始・・・その理由・・・江戸文明以来の倫理性がなお明治期の日本国家で残っていたせい」(『坂』⑦218ページ)などという大嘘を書いただけでなく、旅順については虐殺事件どころか、「旅順というのは、・・・二度(日清・日露戦)にわたって日本人の血を大量に吸った」(『坂』②107ページ)、つまり旅順のせいで多くの日本兵が犠牲を余儀なくされた、と書くのである。

  これに対して福沢は、四つの事件について、もっぱらそれを隠蔽・擁護・合理化・激励する最悪の戦争報道を通した。開戦前の王宮の武力占領については、事実を隠蔽した上で、国王自身の意志による閔妃政権に代わる大院君の政権復帰という筋書きを紹介した。閔妃殺害については、軍の「王城乱入」は少年輩の「野外の遊興」に過ぎないと嘯き、王妃暗殺という重大犯罪については、閔妃が殺されても当然の人物という物語を英文学の教員に創らせ、アメリカの新聞に掲載しようと画策した(ボツ)。

英米「タイムズ」「ワールド」紙等で世界的に喧伝された1894年11月の旅順虐殺事件について福沢は、事実を隠蔽する道を選んだ伊藤首相・陸奥外相らの方針に追従して、(自紙の特派員報道にもあった)事件を「実に跡形もなき誤報・虚言」と全面否定した。藤村道生『日清戦争』(岩波新書)も指摘するように、旅順虐殺事件の責任が不問に付され、福沢ら新聞人がそれに加担することによって、日本の戦場では「そののちこの種の行為を続発させることになり」、確実に遠く南京大虐殺への道を敷設する役割を果したのである。

⑥ 私有物強奪の勧め─『坂』の「日本軍は掠奪せず」の大嘘
 日清戦争の最初の戦闘の朝鮮王宮占領の時から「ハイエナ顔負けの掠奪行為」が日本軍の伝統となっているのに(中塚明『歴史の偽造をただす』高文研、白井久也『明治国家と日清戦争』社会評論社)、『坂』はロシア軍を「隣り村にまで押しこんできている武装盗賊団」(『坂』③369頁)とか「キリスト教国の・・・軍隊」の「無差別殺戮と掠奪のすさまじさは、近代史上、類を絶している。」と書きながら、「日本軍のみは一兵といえども掠奪をしなかった。」(『坂』②385ページ)という大嘘を平然と書いている。

 これに対して、社説で清国兵を「豚尾児、臆病なり」と罵った福沢は、2日後の次の漫言で北京の日本兵に私有物の強奪の勧めを書いた。「目に付くものは、分捕品の外なし、何卒今度は北京中の金銀財宝を掻き浚へて、・・・チャンチャンの着替までも引っ剥で持帰ることこそ願はしけれ。・・・古書画、骨董、珠玉、珍器等も多からんなれば、・・・一儲け・・・」。

⑦ 靖国神社の軍国主義的政治利用の先駆─「戦場に斃るるの幸福」
日清戦争後、「死ハ鴻毛ヨリモ軽シ」の日本兵の「大精神こそ」が日清戦争勝利の「本源」と判断した福沢は、来るべき次の戦争を意識して「再び干戈の動くを見るに至らば、何物に依頼して国を衛る可きか」と問いかけ、「護国の要務」として、この大精神を「養ふには及ぶ限りの光栄を戦死者並に其遺族に与えて、以て戦場に斃るるの幸福なるを感ぜしめざる可らず。・・・恐れ多きことながら大元帥陛下自ら祭主と為らせ給ひ、」と書いて、靖国神社の軍国主義的な政治利用についても先駆的に主張しており、一ヵ月後の靖国神社の臨時大祭には、「辱なくも天皇陛下の御親臨」が実現した。

⑧ 「韓国併呑」の可能性を予告─日本は「清国や朝鮮を領有しよう」としていた
 すでに旅順の占領も終わり、清国が講和全権の派遣を通告してきて勝利の展望が見えていた95年1月の論説において福沢は、「主権云々は純然たる独立国に対する議論にして、朝鮮の如き場合には適用す可らず。・・・今、日本の国力を以てすれば、朝鮮を併呑するが如きは甚だ容易にして、一挙手一投足の労に過ぎざれども、・・・我に利する所少なきが故に先づ之を見合せ、・・・」と主張した。これは「我に利する所」あれば朝鮮併呑もありうることを確実に示唆しており、生前の福沢が(9年後)1910年の「韓国併合」の可能性を見事に予告したものと解釈できよう(韓国「併合」という言葉は、当時の外務省の役人が、福沢の使う「併呑」のような露骨な表現をさけて考え出した言葉である)。

『坂』では、日清戦争について「朝鮮を領有しようということより、朝鮮を他の国にとられた場合、日本の防衛は成立しないということであった。・・・ともかくも、この戦争は清国や朝鮮を領有しようとしておこしたものではなく、多分に受け身であった。」(『坂』②49ページ)と主張している。これについては、前掲愛媛グループが陸奥外相の訓令や『蹇蹇録』や参謀本部編『二歩明治二十七八年日清戦争史決定草案』などに基づいて「受け身」性や「領有」の意図なしの誤謬を論証している。

そのことは、以下の福沢発言によっても同様である。開戦直前の94年7月の論説で朝鮮「改革」に論及した場合、それが朝鮮の「主権を蹂躙するもの」と認識しながら、その朝鮮侵略を世界の「文明の進歩の為」の「至当の天職」と福沢は主張した。また、戦中発言でも朝鮮の「文明開進」のために「国務の実権を我手に握」ることや、「戦に勝て土地を取るは自然の結果」発言は自明の前提としていた。また、台湾征服戦争の際の「台湾の処分・・・一切の殖産興業を日本人の手に経営」「台湾・・・土地の如きは尽く之を没収して、全島挙て官有地と為す」も同様である。さらに、台湾領有などの実現した後の①「日清戦争何でもない。唯是れ日本の外交の序開き」に過ぎないという戒めを想起すれば十分である。

⑨ 足尾銅山鉱毒事件の鎮圧を主張し、義和団鎮圧戦争出兵を喜ぶ福沢
日本の進路をめぐる分岐点の年として注目される1900年、国内では2月の足尾銅山鉱毒事件で最大弾圧の「川俣事件」がおこされ、田中正造が「民を殺すは国家を殺すなり。・・・而して亡びざるの国なし」の有名な「亡国」演説を行った。3月に治安警察法を制定した政府は6月、中国の反帝闘争の「義和団」鎮圧の8カ国連合軍の出兵で、帝国主義諸国の「尖兵・極東の憲兵」として、日本は最多の2万2千の兵士が出動した。由井正臣『田中正造』が指摘するように、「鉱害被害民をはじめ資本主義発展のもとに苦吟する民衆を踏台にこの時点で日本は帝国主義にむかって大きくカーブをきったのである」。
 被害農民の大衆的請願行動を「政府は断然職権を以て処分し一毫も仮借する所ある可らず。・・・斯る不法の行為は断じて許す可らざればなり。」と弾圧を要求した福沢は、日清戦勝利を「外交の序開き」に過ぎないと戒めていた通り、「鉱毒問題は日露問題よりも先決」と言い、天皇直訴まで敢行する同時代の田中正造とは対照的に、義和団鎮圧の北清事変への出兵を「世界に対し日本国の重きを成したるもの」と、帝国主義列強への仲間入りを喜び(田中正造は「東学党は文明的」と言い、義和団の指導者全臻準を賞賛)、日本の後事を石河幹明記者たちに託しながら、翌01年2月に死去した。

⑩ 「従軍慰安婦」構想と福沢─いまだに福沢=男女平等論者が定説?
もし福沢がアジア太平洋戦争期に存命していたならば、日本軍性奴隷(「従軍慰安婦」)構想に反対することはなかったであろうと、私がⅠであえて書いた件に触れておこう。理由の第一は、次著『福沢諭吉の教育論と女性観』が明らかにするように、福沢は家父長制的な差別的女性論を体系化した人物であり(丸山諭吉神話では、福沢は生涯「婦人隷属の打破」を主張)、とりわけ「人間社会には娼婦の欠く可らざる・・・経世の眼を以てすれば寧ろ其必要を認めざるを得ず」として、売買春の公娼制度の積極的な賛成論者であり、加えて彼は「賎業婦人の海外に出稼ぎするを・・・公然許可するこそ得策」と主張していた。 

 第二に、福沢はアジアへの蔑視・侮蔑意識を先導した人物であり、「我輩畢生の目的は唯国権皇張の一点」「人種の尽くるに至るまで戦ふ」という彼の戦争勝利への異常なまでの熱意を見ると、その至上目的のために、(野蛮な)アジア女性を犠牲にすることを厭わないという対応の可能性が、十分予想されよう。
第三に、「元来兵の性質は厳令に束縛せられて恩威に服従するものなれば、圧制の長上に卑屈の軍人を付して却てよく功を奏する」という福沢の皇軍兵士構想を想起しよう。纐纈厚『侵略戦争』(ちくま新書)が「陸軍省通牒」を分析して慰安所は、「厳令」下の「卑屈の軍人」と福沢がいう「過剰なまでの階級差別」を特徴とする日本の「軍隊秩序に内在する矛盾を一切覆い隠」すアメであり、皇軍は「言わばアメとムチの使い分けによってしか軍隊としての秩序を維持できない」みじめな組織であったと分析しているからである。

⑪ 大逆事件と福沢天皇制論の緊急出版─福沢の見事な慈恵思想
1911年1月、一大陰謀の権力犯罪「大逆事件」によって幸徳秋水ら12名が死刑執行された直後の翌2月11日の紀元節に「経済ノ状況漸ニ革マリ人心動モスレハ其ノ帰向ヲ謬ラムトス・・・窮民ニシテ医薬給セス天寿ヲ終フルコト能ハサルハ朕カ最軫念(しんねん)シテ措カサル所」という「済生勅語」が出され、12名の「絞死」と引き替えの慈恵政策として、御内帑(手元)金150万円による「恩賜財団済生会」が創設された。それよりも早く、同じ2月の福沢の命日3日を選んで、時事新報社は福沢の天皇制論『帝室論 尊王論』を緊急出版した。
福沢は誰よりも早い時期から労働運動・社会主義運動の成立・発展の危険性に警鐘をならしてきた経世家であった。福沢の長男が「其思想文章とも・・・猶ほ父のごとし」と評した石河幹明を中心とする時事新報社が、その福沢の意向を汲んだ出版であり、同書巻頭には、時事新報社名義の以下の序文が全文赤字で印刷されていた。

 「帝室論并に尊王論の二編は福澤先生の著述にして我帝室の尊厳神聖を維持する所以の道を説きたるものなり・・・我国近時の世態はますます帝室の尊厳神聖を維持する所以の道を明にするの急要適切なるを認め更に両篇を合して一冊と為し之を刊行・・・」。「我国近時の世態」とは、言うまでもなく、10年5月に始まる「被疑者」逮捕で明るみに出た「大逆事件」とそれを生んだ社会状況を指している。同書は10日後には再版されたように、なぜ時宜にかなっていたのか。「至尊の辺より恩徳を施し、民心を包羅収攬」する天皇制が「国民政治論の軋轢」を「緩和」する機能を期待していた福沢は、『帝室論』において「規矩縄墨(きくじょうぼく)を以て社会の秩序を整理せんとしたらば、人民は・・・道理の中に窒塞することある可し。今この人民の窒塞を救ふて国中に温暖の空気を流通せしめ、世海の情波を平にして民を篤きに帰せしむるものは、唯帝室あるのみ。」と主張していた。これはそのまま「恩賜財団済生会」の慈善事業の勧めと読めよう。

⑫ 福沢のアジア蔑視観と「暗い昭和」期の日本兵士─なぜ平気で中国人を殺せたのか
私の所属する「不戦兵士・市民の会」東海支部の近藤一『ある日本兵の二つの戦場』(社会評論社)の証言において、福沢の教えが直接口伝えされたように、見事に継承されている姿を確認しよう(矢印の左が福沢、右が近藤)。
a「チャンチャン・・・皆殺しにするは造作もなきこと」「支那兵の如き・・・豚狩の積り」→「中国人はチャンコロで豚以下」 b「朝鮮国・・・国に非ず」「支那帝国・・・第二の朝鮮」→「中国人は、自分の国も治めることのできない劣等民族」 c「北京中の金銀財宝を掻き浚へて、・・・チャンチャンの着替まで引つ剥で持帰ることこそ願はしけれ。」→「討伐のたびに兵隊が民家の金品を奪い・・・」。
近藤一(東京高裁で中国女性の強姦を含む自からの戦争犯罪を告白・証言)は、自分が罪の意識なしに中国人を平気で殺せる「東洋鬼」になったのは「小学校の時から中国人はチャンコロで豚以下」という日本社会の蔑視観のせいと語り、この(福沢が先導した)中国人への差別意識が「戦争を起こす元なんですね。」と証言している。

おわりに  一万円札からの福沢諭吉の引退を!
 日本の最高額面紙幣の肖像を飾っている福沢諭吉は、アジアからは朝鮮の「近代化の過程を踏みにじり、破綻へと追いやった、わが民族全体の敵」(韓国)、「最も憎むべき民族の敵」「帝国主義的拡張論者」(台湾)と評価されており、日本軍性奴隷問題に先駆的に取り組んできた尹貞玉さんも「日本の一万円札に福沢が印刷されているかぎり、日本人は信じられない」と語っている。問題は、福沢がこのようにアジアから批判・憎悪されている事実そのものを、おめでたい日本人がほとんど知らないという痛ましい事実である。

 安川の三著に対する学問的な反論はなく、ほかならぬ慶應義塾大学が二度にわたり福沢の講義に安川を招いた事実や、Ⅰ『福沢諭吉のアジア認識』が中国語訳(2004年)されたのに加え(Ⅱの中国語訳も間もなく刊行)、「韓国併合」100年の来年春に韓国語訳も出版されるという近年の動向は、一万円札の肖像からの福沢の引退が実現するかすかな可能性を示唆している。生前にそれが実現すると考えるほど私はオプチミストではないが、アジアと日本の歴史認識の深淵を少しでも埋めるために、交通費のみの条件で、講演・講義代行等に呼ばれるなら、喜んで馳せ参じたい。

<参考文献>
① 安川寿之輔「福沢諭吉と日本のアジア侵略─その思想の歩み」(『不戦』149号、2008年)
② 安川「天皇制民主主義はなぜ続くのか─「丸山諭吉」神話の戦後責任」(『季刊運動<経験>』26号、2008年)
③ 安川「福沢諭吉は近代日本最大の保守主義者である─韓国併合100年・大逆事件100年・工場法99年かかわって」(『飛礫』64号、2009年冬)

追記
 2010年6月に高文研からブックレット『NHKドラマ「坂の上の雲」の歴史認識を問う』が刊行されます。同書には、この報告を短縮した原稿が掲載されることになっています。
 上記3論文のいずれかについて、読んでみたいという奇特な方があれば、喜んでコピーを送りますので、ご一報ください。

安川寿之輔
         〒 464-0028 名古屋市千種区東明町5-22-2
             FAX 052-783-2291

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