2020年10月 9日 (金)

日本の“韓国蔑視”の根源

[寄稿]日本の“韓国蔑視”の根源
登録:2019-10-13 17:20 修正:2019-10-15 07:47
http://japan.hani.co.kr/arti/h21/34629.html
太平洋戦争を「アジア民衆解放」と謳い・宣伝した日本 
帝国主義が終わった後には資本主義でアジア市場に「経済浸透」
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日本の東京湾に停泊した米国艦艇ミズーリ号の甲板で行われた降伏調印式(1945年9月2日)=米国 National Archives II所蔵//ハンギョレ新聞社
 日本は「大東亜戦争」を始めた理由が、西洋帝国からアジア民衆を解放して繁栄を成し遂げるためだったと宣伝した。日本を占領した米軍は、大東亜戦争という名称を直ちに禁止して「太平洋戦争」に言い換えた。しかしこの戦争の性格や戦闘が起きた地域、参加人員の側面を見ると、この戦争は大東亜戦争でも太平洋戦争でもない「アジア太平洋戦争」だった。

 日本人は戦争に敗れたが、これを「敗戦」とはしなかった。連合軍の将軍たちが並んだミズーリ号の船上で執り行われた天皇と日本陸海軍の降伏は、数十年間持続した日本帝国の敗亡を伝える事件だったが、日本人は単に戦争が終わったという意味の「終戦」と言った。負けたということを受け入れられず、戦争を直視できなかった日本社会は今、「戦争ができる正常国家」に向けて突き進んでいる。

 多くの帝国主義国家がそうだったように、日本近代史は戦争の時間で埋まり、日本国は戦争を経て作られた。日本が朝鮮を手中に収めようと起こした日清戦争は、近代的立憲国家を標榜した明治維新が始まってから27年しか経っていない時であり、それから正確に10年後にはロシアと戦争をして、朝鮮の支配権を確実に握った。

植民地収奪により成された帝国の発展

 封建的幕府時代に終止符を打ち、近代的システムを取り入れてからわずか数十年で強大国を倒すことができたのは、日本の膨張欲求だった。一方では、ロシア勢力の南下を阻止しようとしていた英国、朝鮮の支配権とフィリピン支配を相互に交換した米国の共謀も、日本が日露戦争に勝利した要因の中の一つだった。

 日本の進歩派の歴史学者は、満州事変・日中戦争・太平洋戦争は個別の事件ではなく侵略戦争が継続する期間と見て、これを「15年戦争」と言ったが、事実、日本の戦争の歴史は、日清戦争から太平洋戦争時期まで一貫した流れとして進行した。それは領土拡張の歴史であり、侵略の歴史だった。日本は北海道と沖縄を自国の領土に編入した後、台湾と朝鮮を占領して植民地にし、帝国の力を育てていった。その中でも朝鮮という植民地は、日帝が力を備蓄して東アジアで跳躍する重要な足場になった。日本近現代史は「帝国発展史」だが、同時に他のアジア国家を侵略して幾多のアジア人民に苦痛と死をもたらした、流血と略奪の歴史でもあった。二つは日本史から分離して考えることはできない。

 フランスの哲学者プルードンは「所有とは盗賊」だと言った。これと似た語法で、帝国の“発展”は植民地“剥奪”によってのみ成立すると言うことができる。自分たちの能力で新技術を発明して一生懸命労働したので帝国の繁栄を成し遂げたという論理は、植民地が帝国の富にどのような寄与をしたのか努めて無視する、帝国の神話に過ぎない。賢くて努力して帝国が成功したという話は嘘である。

 日本の東京大学歴史学教授の加藤陽子は、戦争の重要性を強調する。満州事変と日中戦争の専門研究者である加藤は、韓国では安倍晋三の歴史認識と集団自衛論に反対する進歩的研究者と紹介されている。しかし加藤は、帝国が発展する過程で植民地はどのような存在だったのか、植民地が帝国といかなる関係だったかは、ほとんど視野に入れない。彼女は、「日清戦争は清も東アジアでリーダーシップを獲得するための努力をしたので、日本の侵略と一方的に言うことはできない」と言う。日露戦争に対しては、「日本が日露戦争に向かう過程を見ると、朝鮮半島が今一度、日本の安全保障問題として浮上したということがわかります」、最近の資料によると、「結局、戦争を避けようとしたのはむしろ日本で、戦争に積極的だったのはロシアだと言うことができます」(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』)と言う。
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東京戦犯法廷で東条英機が中央に座っている=米国 National Archives II所蔵//ハンギョレ新聞社
隠密に繰り返される「征韓論」

 加藤の叙述は実は100年前に征韓論が詠じた台詞を繰り返したものである。日清戦争と日露戦争の目的は、すべて朝鮮半島だった。明治維新以来、征韓論者らは日本の安全のためには朝鮮半島が日本を狙う匕首にならないようにし、日本の安全を確保するには朝鮮半島を手の内に収めなければならない、と主張した。西郷隆盛が朝鮮を征伐しなければならないという「征韓論」を初めて主張したのは1873年だった。彼は朝鮮が日本を辱めたから懲罰しなければならないと言った。武士階級を代弁した西郷は、内乱発生の危機を突破しようと矢を外に向けた。彼の主張は議論を呼び起こし、反対派も多かったが、次第に日本の支配層が共有する常識になった。

 “進歩的”歴史学者の加藤の視覚は、帝国発展史に限定された。加藤は米国や他の帝国主義国家と日本の歴史的行為を比べて、日本の行為は非難を浴びる理由がないという論理を駆使する。例えば2001年の9・11テロの後の米国と、1937年に日中戦争を起こした日本を比べてこのように言う。「日本は同じ観点で戦争を眺めました。相手が悪い仕業をしたから武力を行使するのは当然で、その武力行使をあたかも警察が犯人を検挙するように考えました」

 50年余り前と比べると、現在の日本の進歩学界がどう変わったのかよく現れている。家永三郎が1968年に『太平洋戦争』の筆を執った時、彼の問題意識は加藤の質問とまったく同じだった。すなわち、日本は「なぜ戦争を阻止することができなかったのか」だった。なぜ戦争に抵抗できず屈服したのかに対する、諮問と自答を探す過程だった。

 しかし加藤は、日本史を進展させた内部要因とその過程を察するより、外部の他の主体(国家)と比べる。結局、帝国間の戦争は同じだから、責任を問うことができないということである。真珠湾攻撃は侵攻ではなく、米国の経済制裁と圧迫に対抗した自己救済策でしかない。日本は帝国主義国家との競り合いに割りこんだ被動的位置に過ぎないため、戦争責任に道徳的判断を下すことができなくなる。

 加藤の論理と極右派論理は確かに違う。それでも、加藤は戦争責任を直視するのではない。むしろ、その責任は他の帝国主義国家に押し付けられたり、誰の責任でもないことにして、はっきりしないまま残っている。戦争が人民にどのような苦痛をもたらしたのか、その意味は何かを問わずに、帝国の生存戦略のレベルで歴史を整理する手法こそが、当時の軍部の論理を繰り返すものだ。植民地の抑圧を省みることもせず、異域万里の西洋帝国主義を非難した姿こそ、責任を回避する二律背反的な態度と言うことができる。日本が唯一認める責任は、西洋帝国に対する責任である。日本は米国に対する戦争責任は認めるが、韓国に対する戦争責任が入る余地は初めからない。

戦争は「帝国生存戦略」

 加藤の本には戦争を主導して率いた天皇の責任はどこにも見つからない。1945年、敗戦が近付いた時、日本の支配層が念頭にあったのは国民ではなかった。降伏する場合、天皇の地位がどうなるかが焦眉の関心事だった。戦時に日本国民は「万世一系」を叫んで天皇に忠誠したが、天皇は処罰されなかった。「大東亜戦争」で天皇に忠誠を尽くして命を犠牲にした戦死者、降伏は不名誉として自決を強要された兵士、戦場で非人間的な状況を見て異常心理になった兵士は、皆捨てられた。死体があらゆる所に散らばった状況を経験して、殺人が処罰されない前線で殺すという行為が勇敢であると誉められる時間を過ごし、自分も信じることができない混乱を経験した幾多の兵士が、戦後の日本社会で息を殺して生きていった。しかし戦争が終わって20年余りが過ぎた時、すでに戦争は過去のことになってしまい、高度経済成長だけが日本社会の目標になった。

 事実、日本の戦争責任を回避する歴史叙述は、加藤にだけ該当するものではなく、一晩で出来上がったものでもない。極右歴史観は1980年代から徐々に明らかになり、2000年代に扶桑社などの教科書問題で論争の中心に立った。右翼歴史学は植民地支配を公に擁護する一方、明治維新以来の帝国主義時代を公然と称賛するナショナリズム(民族主義)に染まった。日本の権威ある岩波書店が日本歴史学の研究成果を集大成して2010年に発行した近現代史シリーズ(全10冊)には加藤も執筆者として参加したが、このシリーズは日本の進歩学界がどう変化したのかをよく見せてくれる。
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代表的な征韓論者である西郷隆盛が大韓帝国の征伐を論議する場面。征韓論之図=日本国立国会図書館所蔵//ハンギョレ新聞社
アジア蔑視論で植民地正当化

 日本は中国を侵略するかなり前から、野蛮と未開の国として馬鹿にした。中国を「支那」と呼び「支那は匪賊の社会」で「中国人は近代国家を樹立する能力が欠けている」と主張したが、これは帝国主義国家が侵略を合理化して正当化する時によく使う論理だった。植民地として占領する国が、国際法を知らないとか、自治能力がないとか、相手をよく欺き信義がないとか、不潔である、などの論理を掲げて未開・野蛮の国と規定した後、彼らを発展させて文明化するために植民に入るという論理だった。小学校時代から中国人を「チャンコロ」「チャンチャン」「豚尾漢」だと思う教育を受けた日本帝国軍人は、中国人を自国を治めることができない劣等な民族と見なし、このような侮蔑と蔑視が土台となり、南京虐殺のような大規模な殺傷を敢行することができた。

 朝鮮に対する蔑視は中国より先に始まった。「日本の良心」と言われる歴史学者の家永三郎は、中国侵略が敢行された理由について、「長年にわたった日本人の対中国意識、日本国家の対中国政策を理解しなければ理解できない」として「その歪曲の原型は、朝鮮に対する意識・政策の歪曲として先に形成されているという事実にまず注目しなければならないだろう」と書いた。

 1万円の日本紙幣に顔が載る福沢諭吉は、開化を主張して富国強兵論と自由主義的価値観を説破した近代的啓蒙思想家として尊敬される人物だが、朝鮮に対する認識は極めて偏向した蔑視だった。

 福沢は「朝鮮は国ではない」と言いながら、「朝鮮人民は牛や馬、豚や犬だ」「朝鮮人の頑固無識さは南洋の未開人にも遅れを取らない」「朝鮮人の上流は腐敗した儒学者の巣窟で、下流は奴隷の群集である」と暴言を並べ立てた。このような妄言は、朝鮮人が本当にそうであるかよりは、「今、日本島を守ることにおいて最も近い防御線を構築しなければならない地は、間違いなく朝鮮地方」であるという主張を裏付けるための談論的布石であり、自分を先に欺く欺満的論理であり、相手に責任を押し付ける論理だった。

 日本や先進国が相手国に改革を強要する時、相手国が未開もしくは野蛮な国家であれば強要が正当化されるため、帝国主義国家は相手国の未開と野蛮の程度を過度に強調して自分の侵略を正当化する。野蛮と未開状態にある人民を発展させようとするならば、文明化された国が入り、彼らを教育して発展と自立を図らなければならず、そうするためには軍隊を派兵して占領したり植民地にしなければならないという福沢の論理が作られた。彼は他の隣国を植民地にするのは、本国の領土的・経済的利益を得ようとする行為ではなく、むしろ植民地を手伝う恩恵と認識した。福沢が説破した文明論、アジア蔑視、植民地支配という三角体制は、帝国の責任を回避する催眠論理だった。いまだに多くの日本人がこの論理に捕らわれている。

 極右勢力の歴史観が植民地支配に対して恩恵という誤った方向に導かれた認識を説破しているとすれば、進歩的知識人の認識の内には植民地が不在だったといえる。戦後時期、戦争責任を追及して日本学界で“天皇”と呼ばれた丸山眞男にも、アジアの民衆に対する視覚は完全になく、アジアに対する戦争責任という意識や朝鮮と台湾に対する視線も冷淡だった。

 一時期、学界で東アジア論が活発になり注目された中国文学研究者の竹内好は、中国人民には温情的態度を取ったが、植民地朝鮮に対しては無知で関心を持たなかった。竹内は「こちらでは何も知らない。実際に侵略する側は、侵略される側については分からない」と言ったが、本当にそうだった。

 朝鮮なしに東アジアの平和と未来を考えることはできないが、朝鮮は東アジアで数十年間、見えない透明な存在だった。日本の知識人が朝鮮を見ることができず、意識することができないということは、単に植民地朝鮮を念頭に置かないことだけを意味しない。朝鮮を見ることができないのは、結局、日本と日本の歴史を見ることができないということである。

資本主義が立つ「後進‐中進‐先進」排他的な人種観

 アジア太平洋戦争期に欺満的なアジア民族の解放と独立を掲げて戦争を起こした日本は、戦後に独立を果たした東南アジア諸国を商品の販売市場と考えて、再度浸透した。平和な経済戦争だった。

 帝国主義時代に横行した野蛮‐未開‐文明の段階論はすでに消えて、領土的帝国主義が横行した時代は過ぎ去った。しかし、資本主義が世界的範囲に広がり後進‐中進‐先進の経済発展段階論に形を変えた。経済成長を至高の目標と考える価値観は、貧困であるという理由で第三世界の後進国を排斥して見下し、下流階層を無視する排他的人種観と階級認識を生産する。日本帝国の歴史は、単に日本を非難することを越えて、現在私たちが成した現実を眺めさせてくれる。韓国は植民地から始まり経済大国に成長した唯一の国だろう。帝国を批判するだけではなく、韓国が経験した植民地の苦痛と挫折を忘れず、植民地合理化論理が異なる姿で私たちの前に現れないか、常に慎重に省察しなければならない。

キム・ドゥクジュン 韓国史学会会長(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://h21.hani.co.kr/arti/society/society_general/47691.html
韓国語原文入力:2019-10-09 13:49
訳M.S
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2020年8月27日 (木)

日本郵政の社長と副社長

                                                      2019.10.04
~日本郵政の社長と副社長への申し入れ~
NHKへの抗議の撤回と視聴者への謝罪を求め、関連した質問書を手交

「NHKを監視・激励する視聴者コミュニニティ」では、10月1日のNHKへの文書提出に続いて、NHKに圧力をかけた側の日本郵政本社を訪れ、長門正貢社長と鈴木康雄副社長宛の文書を手交しました。事前の面談アポの電話を何回も繰り返して漸く実現した面談ですが、当日も本社受付前で立ったまま受け取ろうとするので強く異議を申し入れ、ロビー内のテーブルで約10分間面談しました。
日 時:2019年10月4日 14時30分から10分間

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2020年7月18日 (土)

日本の台湾統治:後藤新平の植民地政策

壺 齋 閑 話
日本語と日本文化を語る、 また読書の余韻から思想の芽を育てる
日本の台湾統治:後藤新平の植民地政策
http://blog.hix05.com/blog/2009/04/post_969.html
日本が台湾を領有したのは明治28年(1895年)、日清戦争に勝利した戦利品としてだった。それ以来、昭和20年(1945年)の敗戦によって領有権を放棄するまでの50年間、台湾を植民地として統治した。
台湾に限らず、戦前の日本は朝鮮半島を属国にしたほか、旧満州や南洋諸島を実質的に支配した歴史を持つ。こうした歴史は今日では多くの日本人の意識の中からあらかた消え去ってしまい、時折、敗戦による混乱の中で命からがら祖国に引き上げてきた人々の苦労話が伝えられる程度だ。その一方で、日本がこれら植民地に対してどのようなことを行ったのかについては、表立って問題にされることはほとんどなかった。
そこへ先日、NHKが日本統治下の台湾についての報道番組を放送した。日本人側の視点のみではなく、台湾人の視点から見た統治の実情を、それなりにあぶりだそうとするもので、非常に興味深く見たところだ。
日本にとって、台湾は始めての植民地だった。当時の日本は、植民地政策のノウハウなどは全く持っていない。そんなわけで領有当初は台湾の内政は混乱し、樟脳の生産を始め主要な産業は大いに停滞した。そんな中で、台湾での植民地経営をどのように行っていくべきか、イギリスやフランスなど先進諸国(?)の例を参考にしながら、暗中模索が始まったようだ。
このときに大きな役割を果たしたのが、後藤新平だった。後藤は後に東京市長や内務大臣などを歴任し、とりわけ関東大震災後の復興計画に大きな足跡を残した人物だ。そんなところから、日本では都市計画の関係者の間で、神様のようにあがめられている。その後藤が台湾総督府の民生局長として、台湾に対する植民地政策のレールを敷いたというのだ。
台湾領有は、明治憲法が発布されてから5年後のことだ。法治国家の理念からすれば、植民地経営も憲法に基づいて行わねばならない。ところがその憲法は、植民地領有の事態を全く予想していなかったので、台湾の住人をどのように位置づけるべきなのか、指針が得られない。
そこで台湾人も擬似日本人として想定し、日本人同様の法律を適用すべきなのか、それとも憲法の枠外に特別法を作り、台湾人を非日本人として支配すべきなのか、そこが法的な問題として浮かび上がった。
後藤新平は1898年に台湾総督府民生局長に赴任するや、民生の最高責任者として、日本人と台湾人の分離政策を遂行した。日本人を一級市民とし、当時台湾に多くいたとされる琉球の人々を二級市民とし、台湾人を三級市民として、徹底的に分離・差別する政策をとった。学校や公共施設の利用も差別した。日本人は統治する人種、台湾人は統治される人種という構図を築き上げたわけだ。
匪賊刑罰令という特別法を作り、日本人が与えた秩序に従わないものは、たとえ軽微な罪でも死刑にした。発布後5年間でこの法律を適用され死刑になった台湾人は3000人にのぼるという。
後藤新平は台湾人を語って「ヒラメの目をタイの目にすることはできない」といったそうだが、そこにはこの男の根深い人種差別意識が反映されているともいえる。
一方後藤新平は、台湾経済の発展に力を注ぎ、一時衰退していた樟脳の生産を復活させた。基隆を海外輸出向けの港として整備し、そこから欧米に大量の樟脳を輸出することに成功した。その辺は、後の東京改造計画を予想させる、この男の能吏としての一面がのぞいているともいえる。
ともあれ、日本人が直接統治しながら、日本人と台湾人を分離・差別する構図は、その後の日本の台湾統治の大きな枠組みとなる。後藤新平はその枠組み作りに大きくあずかったということになる。
昭和に入り、軍部が政治の実験を握るようになると、こうした流れに変化が起きる。軍部は憲法の規定を盾にとって、台湾人も天皇の臣民、つまり皇民だといいだした。その背景には、台湾人を日本の軍人として動員したいとする思惑があったものと思われる。実際戦争末期には、21万人の台湾人が日本兵として動員されている。
軍部は、台湾人も日本人に同化することを求めた。台湾の土地のいたるところに神社が立てられ、台湾人に対する日本語教育が強化され、姓名を日本風に変える改姓名が強要された。
日本の軍部はこうした動きを、台湾人を野蛮な状態から解放し、日本人並みの文明人にするとともに、天皇の忠実な臣下にするためだと強調していた。
それを当の台湾人がどう思っていたか。NHKは、日本統治下の台湾で暮らし今日まで生き残った多くの台湾人を登場させて、その思いを語らせていた。
筆者はこの番組を見ながら、数年前に訪れたインドネシアでの見聞を思い出した。インドネシアも一時期日本の支配下に入った歴史を持っている。そして台湾と同じく、表面的には親日的である。だからといって心から日本人が好きなわけではない。
インドネシア人は長らく自分たちを支配してきたオランダ人を心の底から憎み、彼らを赤鬼と呼んでいた。だから日本人がオランダ人を追い出したとき、インドネシア人は喜んだこともあった。しかしそのうちに日本人は、インドネシア人に対して、支配者として横柄な態度を丸出しするようになり、その上日本風の文化まで押し付けてきた。そこで彼らはオランダから日本への支配者の交代を喩えて、「赤鬼がいなくなって、小人の鬼がやってきた」とささやきあったのだそうである。
ある民族が他の民族を支配して隷従させることは、どんな理屈を以てしても正当化されるものではい。この当たり前のことを、この番組は改めて気づかせてくれた。
関連リンク:日本の政治と社会

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2011年8月 6日 (土)

『NHK「坂の上の雲」を考える宮城県有志の会』がNHKに再度の質問状を提出

 『NHK「坂の上の雲」を考える宮城県有志の会』では、去る2月28日に行ったNHKへの申入れに対し、菅エグゼクティブプロデューサーの回答が4月11日付であったのに対し、納得がいかない答えということで、7月4日に「再度の質問状」を発しました。同日、4人でNHK仙台放送局に申し入れました。回答への5人の会員のナマの感想も資料として添えました。
7月12日付で2回目の回答が西村エグゼクティブプロデューサー執筆にて届いております。今後のことをこれから話合っていくところです。
一戸共同代表の委任により全国の皆様にお伝えいたします。

ドラマ「坂の上の雲」に関する再度の質問状
                   2011年7月4日

日本放送協会会長
 松本 正之 様
         NHK「坂の上の雲」を考える宮城県有志の会
                   共同代表 庄司 捷彦
                   同    加藤 嘉信
                   同    一戸 葉子
                  連絡先:庄司捷彦法律事務所(石巻市)

1、私たちは本年2月28日付の文書で、貴協会(NHK)に対し、【NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」に関する質問状】を送付させて頂きました。この文書に対しては、震災後の4月11日付の回答を頂きましたので、当方では、この貴協会「エグゼクティブプロデューサー 菅康弘」氏名での回答を検討させて頂きました。

2、
しかし、残念ながら、今回の回答は、私たちを深く失望させるものでした。
第1に、私たちは、協会会長としての松本正之氏・貴殿宛の文書を送りました。しかし回答文は上記のように、一部門の責任者名義での文書でした。この文書が貴協会を代表する文書なのか、一部門の見解なのか、判断できません。当方が求めていたのは貴協会を代表する見解の表明であることは質問状の形式から明らかなことです。当方が求めているのは、制作現場担当者の意見ではありません。
今回の回答の形式は、世に言う「代返」に等しいもので、質問者に対して、極めて無礼な対応と言わざるを得ません。貴協会の猛省を求めます。私たちは、貴協会との視聴契約の当事者です。そのことを貴殿が想起されることを希望します。

第2に、今回の回答内容は、視聴者からの同旨の質問に対する回答(平成21年11月4日付、エグゼクティブプロデューサー西村与志木氏作成)の文章と重なります。作成者が異なりながら、これほどに類似していることに、貴協会の不遜で傲慢な姿勢を感じるのは私たちだけでしょうか。しかも、回答文には「質問状にも書かれていらっしゃるとおり、司馬遼太郎氏は小説『坂の上の雲』を戦争賛美では書いてはいません」と表記しています。私たちの質問状のどこに「司馬遼太郎氏は小説『坂の上の雲』を戦争賛美では書いてはいません」との記載があるでしょうか。質問状には「戦争批判なき戦争ドラマ」との記述はありますが、「戦争賛美ではない」などと言う記載はありません。貴協会の回答書は、当方の記載を我田引水的にねじ曲げて表記し、質問の趣旨をそらすもので、卑劣な論述と言わなければなりません。

第3に、これが最大の問題点ですが、当方が第1から第5まで、項を分けて、具体的な質問を列記しておりましたが、貴協会回答は、どの質問にも正面から回答しておりません。このような対応は、社会的には、不誠実な対応の典型と評価されるべき行為です。
例えば、当方の質問状では、原作者が生前に映像化を拒否していた事実を摘示して、原作者の意思に反するのではないかと質問しました。これに対し貴協会回答では、著作権承継者である配偶者の同意を対置させています。これは回答にはなっておりません。当方はあくまで原作者の意思との齟齬を問題にしていたのですから。
更に、質問5では、ドラマの制作費用も尋ねておりましたが、金額での回答を回避されています。これも、契約当事者である視聴者を軽視した対応と強く感じている次第です。

3、以上のとおり、冒頭に掲げた貴協会回答書が、その形式面でも内容面でも、社会的常識を大きく逸脱した、無礼千万な文書であることを、指摘させて頂きました。
本書面により改めて、【NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」に関する質問状】(2月28日付)の1から5の全ての質問について、貴協会代表者からの、文書による、各質問毎の、誠意ある御回答を、心よりお待ち申し上げます。
本書面到達後、2週間以内に文書による御回答を下さいますよう、希望いたします。      以上

7月12日付の西村エグゼクティブプロデューサー名の2回目の回答は........
NHK「坂の上の雲」を考える宮城県有志の会
                共同代表・ 庄司捷彦様 加藤嘉信様 一戸葉子様
拝復
  日頃からNHKの放送に対し高い関心とご理解をいだだき有り難
うございます。2011年7月4日付でNHK会長、松本正之あて
に送られた「ドラマ『坂の上の雲』に関する再度の質間状」につい
て松本会長の指示のもと小職、西村与志木がNHKの公式な回答と
してお答えいたします。

  司馬遼太郎氏が映像化に反対していた理由として「ミリタリズム
を鼓吹しているように誤解されるおそれがある」と述べていた、と
前回の質問状の中で記述されているとおり、司馬氏は小説「坂の上
の雲」を戦争賛美の姿勢で書いてはいません。

  NHKは映像化の許可をいただくため、これまで幾たびか司馬氏
と交渉をして参りましたが、司馬氏が亡くなられた後は、著作権継
承者の福田みどり様および司馬氏をよく理解する司馬遼太郎記念財
団のみなさまと話し合いを持ち、許可をいだだくことができました。
NHKは司馬氏の思いと原作をできる限り尊重し、生かす形でドラ
マを制作しています。

  2011年7月28日付けでいただいた質問状については、項目
立てはしておりませんが、前回お送りした文書でご回答申し上げて
いると考えております。
  今後ともスペシャルドラマ「坂の上の雲」へのご支援、ご埋解を
よろしくお願い申し上げます。
                         敬具
                                                    
平成23年 7月 12日
  NHK放送総局「坂の上の雲」プロジェクト
              エグゼクティブプロデューサー
                       西村与志木
........というものです。
──────────────────────────────────────
回答への5人の会員のナマの感想の資料はこちらをご覧ください。

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2011年4月20日 (水)

『NHK「坂の上の雲」を考える宮城県有志の会』がNHKに質問状

中塚 明 氏(呼びかけ人:奈良女子大学名誉教授)から宮城県での「坂の上の雲」を考える会の活動について紹介がありました。
なおこの内容はすべて3.11大震災以前のことです。
現在の宮城の情況を『NHK「坂の上の雲」を考える宮城県有志の会』の共同代表 一戸葉子さんに電話でお聞きしたところ、会員さんはみな復旧活動で多忙のなか、時間を見つけ会の活動も続けておられるとのことでした。
現在の宮城県の震災被害状況
http://www.pref.miyagi.jp/kikitaisaku/higasinihondaisinsai/higaizyoukyou.htm 

NHKスペシヤルドラマ「坂の上の雲」に関する質問状
                      2011年2月28日
日本放送協会会長
 松本 正之 様
         NHK「坂の上の雲」を考える宮城県有志の会
                   共同代表 庄司捷彦
                   同    加藤嘉信
                   同    一戸葉子
                  連絡先:庄司捷彦法律事務所(石巻市)

 貴協会(NHK)では、一昨年から足かけ3年にわたってドラマ「坂の上の雲」を放送するとして放映を重ねてきました。計画の13回のうち既に9回の放送を終えられました。昨年は韓国併合100年の年に当たりましたので、私たち市民は否応なく近代日本の歴史と向き合うことになりました。このような私たちの前に披露されたドラマ「坂の上の雲」は、私たちに強い違和感を残しています。
 そこで、この度貴協会の役員改選が行われ、貴殿が新会長に就任されたこの機会に、私たち市民が貴協会の運営、殊にドラマ「坂の上の雲」に関して抱いているいくつかの疑問についてお伺いしたいと思います。以下の5点について、貴協会のご見解・回答を本年3月末日までに文書にてお寄せくださいますよう、お願い申し上げます。
 尚、私たちの会員から、ドラマ「坂の上の雲」についての感想文が集まっております。貴協会での検討資料として活用して頂きたく、添付させて頂きます。

質問1
 ドラマ「坂の上の雲」を鑑賞して多くの会員が強く感じた印象は「戦争批判なき戦争ドラマ」というものでした。原作者である司馬遼太郎氏がその生前、この小説の映像化を拒否しており、その理由として「ミリタリズムを鼓吹しているように誤解されるおそれがある」と述べていたことは周知の事実です。貴協会がこの作品を敢えて映像化することは、この原作者の意思に反することになるのではないでしょうか。貴協会のご意見をお聞かせください。
 更に、貴協会が、原作者の意思を別にして映像化に踏み切った制作企図、或いは制作目的を明示してください。

質問2
 このドラマでは、日清戦争と日露戦争のどちらも「止むを得ない戦争だった」と説明していると理解されます。それは原作がそのように表現していることの反映なのでしょう。しかし、公共放送とされる貴協会がこのような「原作のもつ戦争観」を無批判にドラマ化することに問題はないとお考えでしょうか。
 現在私たちは平和主義を根本原理とする憲法のもとにあります。日露戦争当時に有力な論陣として存在していた堺利彦、幸徳秋水、内村鑑三らの非戦論を全く登場させていないのは、歴史としての重要な側面を欠落させていることになるのではないでしょうか。
これらの点についての、貴協会のご見解を明示してください。

質問3
 貴協会は、ドラマ「坂の上の雲」の国際的影響をどのようにお考えなのでしょうか。
 特に、朝鮮半島や中国の人々が鑑賞した場合、ドラマの内容に納得を得られるとお考えでしょうか。中でも、次の4点についての説明を欠いたままでは国際的理解を得ることは困難と考えますが、いかがでしょうか。
 (1)日清戦争での主たる戦場は朝鮮半島であり、甚大な戦争被害を受けたのが
    同半島であったことに触れておりません。
 (2)この時期の「甲午農民戦争」など、日本の侵略に反対した闘いについても
    殆ど触れられていません。
 (3)明成皇后(閔妃)暗殺事件での、日本政府の横暴にも殆ど触れられていま
    せん。
 (4)伊藤博文を「臆病な平和主義者」とだけ描いていますが、実際は東学農民の
    虐殺、王宮占領や皇后暗殺を承認し、初代朝鮮統監になるなど、侵略の立役
    者と目されて”暗殺”されたのではありませんか。

質問4
 私たちの得た資料には、ドラマ「坂の上の雲」の制作責任者の発言が掲載されており、このドラマの制作意図については「現代の日本人に勇気と示唆を与えるものとしたい」と回答されています。
 ここで「勇気と示唆」とはどのような内容と理解すればよいのでしょうか。具体的な見解をお聞かせください。

質問5
 最後に、ドラマ「坂の上の雲」の制作費をお知らせください。
 言うまでもなく、責協会への支払は法によって擬製されている契約によって支払われているものです。その収支は、国会へも提出されておりますが、国民の関心は、個々の作品の制作費にも寄せられています。
 一部にはドラマ「坂の上の雲」の制作費には他のドラマとは比較にならない程の多額の資金が投下されていると報じられています。その真偽は国民の知る権利の範囲であろうと考えています。是非、正確な制作費(予定も含めて)を開示してください。        以上

(なお回答日は大震災のため4月末に延期されました。)

質問状の中にある感想文の一部をこちら(PDF)に転載しました。

この会は昨年5月16日に仙台で開かれた中塚明氏の講演会「NHK『坂の上の雲』をどうみるかー「韓国併合」100年を考えるー」に参加された人たちの中から生まれ、その後、勉強会・討論を積み重ね、何度も練りに練った質問状を作成して今年2月にNHKに提出されたとのことです。
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中塚明氏講演会から

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↑クリックで拡大
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NHK「坂の上の雲」を考える宮城県有志の会 一戸葉子さんから

 4/11日に以下のようなNHKからの回答書が届き、5/3日,会の打ち合わせを行いました。
皆何も回答していないことに怒り、このまま黙っているにはいやだということになり、再度NHKにもの申す(5/末までにまとめる予定です)ことになりました。
********************************
NHKからの回答書(本文のみ)
NHK「坂の上の雲」を考える宮城県有志の会 庄司捷彦様 加藤嘉信様 一戸葉子さま

 質問状に書かれていらっしゃるとおり、司馬遼太郎氏は小説「坂の上の雲」を戦争賛美の姿勢で書いてはいません。むしろそう誤解されることを恐れていました。
 スペシャルドラマ「坂の上の雲」は映像化の許可を司馬遼太郎氏夫人の福田みどり様よりいただき、司馬氏のこうした思いと、原作を出来る限り尊重し、生かす形でドラマを制作しています。近代国家の第一歩をしるした明治のエネルギーと苦悩をこれまでにないスケールのドラマとして描いています。
その中に、混沌とした国際情勢の中にある現代日本にとってのヒントがあるのではないかと考えております。予算につきましては、原作のもつ国際的広がりと、明治の再現ということに力をいれ、大河ドラマをこえる規模で制作しております。

今後ともスペシャルドラマ「坂の上の雲」へのご支援、ご理解をよろしくお願い申し上げます。
平成23年4月11日 NHK放送総局「坂の上の雲」プロジェクトエグゼクディブプロデューサー
菅康弘

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2011年3月10日 (木)

大逆事件100年 関連本が続々 <本よみうり堂>

変革の理想に生きた先人  http://bit.ly/e2F43p

 明治天皇の暗殺を企てたとして、幸徳秋水ら無政府主義者、社会主義者が一斉検挙された大逆事件から100年が過ぎた。(待田晋哉)

 事件と関わりがあった人物を題材とした小説や評伝が、相次いでいる。閉塞感が漂う現代、近代史の曲がり角となった事件が注目を集める。 大逆事件は、日露戦争の終結から5年後の1910年(明治43年)に起きた。26人が起訴、翌11年に幸徳ら12人が死刑となり、後に警視庁に特別高等警察が置かれた。明治日本が国力を蓄えロシアに勝ったのが「光」ならば、「影」と言える事件だ。

 文学作品で近年、大逆事件を独自にとらえ直したのは、一昨年の辻原登『許されざる者』(毎日新聞社)だった。事件で処刑された和歌山県新宮出身の医師、大石誠之助をモデルにした主人公を描く。 史実を踏まえた架空の物語の体裁を取りながら、地域医療に献身し恋愛や政治に熱中する医師の姿ははつらつとしている。この年は偶然、日露戦争を扱った司馬遼太郎『坂の上の雲』も、NHKがドラマの第1部の放送を始めた。
 辻原さんは「明治時代は天皇を立憲君主にいただき、がむしゃらに列強入りを目指す体制。その中で歴史を作りかえようと大逆事件に殉じた人々の存在は、国家や人間について真摯に考えさせる」と語る。「事件を単に『国家/反権力』ととらえるのでは、理解が深まらない。明治国家を作り日露戦争を遂行する立場、大逆事件で裁かれる立場に分かれたが、それぞれ互いに理想を持って生きた」

 大逆事件後、社会主義運動は「冬の時代」を迎える。だが厳しい状況でも輝きを失わない者たちがいた。幸徳秋水の盟友だった堺利彦は事件当時、監獄にいて難を逃れている。

昨年出た黒岩比佐子『パンとペン』(講談社)は、彼が事件後に編集プロダクションで翻訳会社「売文社」を設立し、粘り強く生きた姿を追った。

 中森明夫『アナーキー・イン・ザ・JP』(新潮社)は、無政府主義者で、堺らと同じく事件を免れたが後の関東大震災の混乱時に殺害された大杉栄の霊が17歳の少年に住み着く小説。

Bungakuza

演劇界でも、大杉や伊藤野枝ら恋と革命、芸術に生きた男女の群像劇『美しきものの伝説』(宮本研・作)が昨年末に蜷川幸雄主宰の劇団「さいたまネクスト・シアター」、先月は西川信廣演出により文学座で再演が相次いだ。 大正時代はベルエポックだったのか? 安住邦男

 また、高澤秀次『文学者たちの大逆事件と韓国併合』(平凡社新書)、先月には、黒川創『きれいな風貌』(新潮社)が刊行された。大石誠之助のおいで、東京・神田駿河台の文化学院を創設した西村伊作の評伝だ。おじの死を乗り越え、娘に理想の教育を授けたいと戦前に類のない男女共学の学校設立に私財を投じる姿は型破りで広々とした気分に誘う。

(2011年3月9日  読売新聞)

許されざる者 上
辻原登/著 毎日新聞社/ 1785円

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大逆事件 - 晴走雨読
大逆事件 死と生の群像』(田中伸尚著 岩波書店 2010年刊)
無告の人々、もう一つの現実 田村元彦 西南学院大准教授
41vqsecgvzl_sl500_aa300_1かつて伊藤野枝が故郷である福岡今宿の集落の自立自尊の暮らしを描いた文章(「無政府の事実」)から受けとるものと響きあっている。無政府共産は実現不可能な空想ではなく、私の生(うま)れた村はずっとそれをやってきた、と野枝は言う。何でもお上頼みの「陳情主義」ではない相互扶助のコミュニティーが「新しい公共」や「まちづくり」といった標語の下に新たな課題として再発見されている現在、アナキズムを暴力的なテロリズムと故意に同一視して、〈もう一つの世界〉の可能性を遮断してしまった百年前の事件(韓国併合も含む)によってわれわれが失ってしまったものは大きい。

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2011年2月15日 (火)

「残夢 大逆事件を生き抜いた男 坂本清馬の一生」(鎌田慧)公開中

鎌田慧さんの新連載「残夢」の第1回を無料公開しています。

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▼明治維新後、新政府の要職は薩摩・長州出身者によって占められ、裁判官と検察官を統括する司法省(現、法務省)は非エリート官僚中心の三流官庁として誕生した。その三流官庁が浮上したのは、1909年の日糖疑獄と翌年の大逆事件だった。大逆事件で<検察は皇室の危機を未然に防いだ功績で司法部内での優位を確立し、政治的影響力も飛躍的に増大させた。 <検察は疑獄と思想事件の摘発を繰り返しながら政財界や他省庁への影響力を強めていく>(『冤罪法廷』魚住昭著、講談社)

 数々の冤罪事件を生み出す検察の体質は約100年前から同じ。事件をでっちあげて特定の政治的勢力に弾圧を加え、時代の風潮を替えてしまう。始末の悪いことに検事たちは「良いことをしている」と確信しているから暴走する。検察の問題だけではない。大逆事件は多くのことを教えてくれる。大逆事件は今も生きているのだ。
 今週から鎌田慧さんの新連載「残夢――坂本清馬の一生」が始まった。資料集めや高知取材など準備に数年をかけた渾身の力作にご期待ください。(伊田浩之)

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2011年2月14日 (月)

ニューズレター第23号を発行しました。

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ニューズレター第23号を発行しました。

 

Pdf_icon_311  PDFダウンロード

 

2月号は『大逆事件100年』の特集を組みました。NHKを監視・激励する視聴者コミュニティが ”『坂の上の雲』放送を考える”時、なぜ『大逆事件100年』かについては、3ページの中島 晃 弁護士の寄稿 "特集『大逆事件100年』に寄せて『坂の上の雲』と大逆事件”をごらんください。

 

 

  目次  特集:  『大逆事件100年』

1頁:  NHK新会長選出の混乱, 小丸委員長辞任, 松本新会長の見識は?
   会長選考と経営委員選考のあるべき姿の議論を!

2頁:  NHK経営委員長代行の底なしの無定見

3頁: 特集『大逆事件100年』に寄せて『坂の上の雲』と大逆事件  弁護士 中島 晃
4~5頁: 「大逆事件百年後の意味」を考える院内集会

6頁:  女性革命家の姿 知って 管野須賀子 死後100年、実像の研究進む
7頁:「坂の上の雲」ではない、もう一つの明治があった

8頁:  院内集会 リレートーク から
9~10頁: 大逆事件 幸徳秋水刑死100年 墓前祭(高知・四万十市)

11頁:「埋もれた声―大逆事件から100年」をみて
12頁: マッターホルン直下で氷河滑走!

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2011年2月 4日 (金)

安川寿之輔氏講演 「日の丸・君が代」強制と良心的不服従~「君が代」不起立の思想史的意義

http://d.hatena.ne.jp/zames_maki/20110206#p3

日時:2011年2月6日(日) 14時~16時半(1時半会場)
場所:東京・生活者ネットワーク4階会議室(地下鉄東新宿駅5分、西武新宿駅5分)→地図
資料代:500円
講師:安川寿之輔(名古屋大学名誉教授)
「日の丸・君が代」強制と良心的不服従~「君が代」不起立の思想史的意義

主催:学校に対する君が代斉唱・日の丸掲揚の強制を憂慮する会

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2011年1月19日 (水)

「大逆事件百年後の意味」を問う院内集会 (1/24)

ニューズレター第23号『大逆事件100年』特集を参照
http://kakaue.web.fc2.com/NL/n23.pdf

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 昨二十四日は、新宿区富久町の東京監獄で、幸徳秋水など大逆事件に連座した十一人が絞首刑にされた日から百年目だった。が、最後の管野須賀子の処刑は、二十五日朝に引き延ばされた。一日では処理できなかったからである。
 「百年後の意味」を考える集会が、参議院議員会館で聞かれた。福島瑞穂さんが司会して、「大逆事件の真実をあきらかにする会」の大岩川嫩(ふたばこ)さんと私がまず少し話し、ジャーナリストの早野透さん、弁護士の安田好弘さん、作家の中森明夫さんなどが発言をした。

Kanata

 東京監獄跡の児童公園の片隅に、「刑死者慰霊塔」が建っている。木造アパートの窓の真下で、頭の上にメリヤスの股引などがぶら下がっている。坂本清馬などの大逆事件の再審請求を担当した森長英三郎さんと、日弁連が協力して四十七年前に建てられた。

 この碑は、でっちあげで死刑にされた幸徳たちぱかりでなく、監獄で刑死した二百九十人すべての人たちの慰霊塔になっている。年に一回、町会の人たちが、慰霊祭を行っている。涙ぐましい、優しい行為だが、その町会の人たちも集会に参加して下さった。
 大逆事件から百年たっても日本の検察は、当時と同じように、過剰な権力をもった横暴を繰り返している。戦後の民主化でも変わらなかったが、百年目からは変えなくては。 
(ルポライター)かまた さとし 鎌田慧   東京Web 1/25

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幸徳秋水の志引き継ぐ 大逆事件刑死100年 墓前祭 高知・四万十市(しんぶん赤旗)

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(写真)追悼の言葉をおくる田中実行委員長=24日、高知県四万十市
  幸徳秋水(1871~1911)が「大逆事件」の首謀者として処刑されて100年にあたる24日、出身地の高知県四万十市で、「幸徳秋水刑死100周年記念事業実行委員会」が主催し、墓前祭が行われ、大勢の市民らが参列しました。
 四万十市は、田中全市長を実行委員長に官民12団体が実行委員会をつくり、秋水の偉業を伝える啓発事業やシンポジウムなどを、今年1年間を通じて行っています。
 田中実行委員長は「秋水先生は日露戦争にも勇気をもって非戦論を唱え、非戦・平和、自由平等の思想の広がりを恐れた明治政府によってつくられた大逆事件の犠牲になりました。先生の志を引き継ぎ自由・平等・博愛の世界実現に取り組んでいきます」と追悼のあいさつをしました。
 遺族や市民、大逆事件の研究者らとともに、日本共産党を代表して岡本かずや党幡多地区副委員長が献花しました。
 日本共産党の志位和夫委員長がメッセージ(別項)を寄せました。
 自由民権記念館友の会の窪田充治会長(79)は「100年前に戦争の本質を見抜き非戦論を唱えた秋水の思想は現代にも生きるものです」と話していました。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik10/2011-01-25/2011012503_02_1.html
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【写真】幸徳秋水の刑死100年をしのぶフォークソングを熱唱する参列者(四万十市中村山手通)(高知新聞Newsimages1
1月24日に「大逆事件百年後の意味」を問う院内集会
週刊金曜日 1月19日(水)18時7分配信

 100年前、天皇暗殺を企てたとして、社会主義者の幸徳秋水ら12人が死刑、12人が無期懲役になった事件があった。世に言う「大逆事件」である。
 自白を強要する取り調べ、証人申請は全く認められず、大審院一審のみのスピード裁判。そして判決からわずか6日後の1911年1月24日に、幸徳秋水たち11人(1人は25日)が処刑された。

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 処刑の日からちょうど100年の今年1月24日、院内集会を開催し、冤罪、表現の自由、民主主義への弾圧などの大逆事件の現在に続く大きな問題点を共有し、「大逆事件百年後の意味」を共に考える集会が参議院議員会館内で開かれる。
 開催概要は下記の通り。
日 時 : 1月24日(月)12:00~13:30
場 所 : 参議院議員会館B107会議室
講 演 : 鎌田 慧(ルポルタージュ作家)
   大岩川嫩(「大逆事件の真実をあきらかにする会」世話人)
リレートーク :早野 透(桜美林大学教授・元朝日新聞記者)、安田 好弘(弁護士)、中森明夫(作家)ほか
メッセージ : むのたけじ(ジャーナリスト)ほか
■問い合わせ:福島みずほ事務所TEL03-6550-1111
今野東事務所TEL03-6550-0811 .
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20110119-00000301-kinyobi-soci
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大逆事件百年後の意味 院内集会報告 【福島みずほ】
http://www.mizuhoto.org/news/2011/01/post-23.html
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大逆事件:秋水、刑死100年 出身地・四万十市で、きょう墓前祭 /高知
毎日新聞 1月24日(月)12時24分配信
 ◇再評価の動き
 四万十市が輩出した社会主義思想家、幸徳秋水(1871~1911)が天皇暗殺を企てたとされる大逆事件の首謀者として処刑されてから、きょうで丸100年。地元でも長らくタブー視されてきたが、最近、功績を再評価する動きが行政や市民の間に広がっている。24日は墓前祭があり、県内外から大勢の関係者らが参列する。
 秋水の再評価はまず民間から。郷土史家らが「幸徳秋水を顕彰する会」を00年3月に設立した。中村(現・四万十)市議会に、秋水の偉業をたたえる決議を採択するよう要請した。一旦は委員会段階で継続審査となったが、同会のメンバーが各議員を説得。同年12月に全会一致で採択された。これを機に、労働組合などが中心だった記念事業は一般の市民団体が加わるようになったという。
 刑死100年の今年、約10件の顕彰行事を開く「幸徳秋水刑死百周年記念事業実行委員会」の委員長を務めるのは、田中全・四万十市長。官民一体となって、郷里の偉人の名誉回復に努める。
 同委で中核を担う同会は、これまで秋水の研究会や講義開催などの活動を展開してきた。07年には小冊子「現代に生きる 幸徳秋水」を発行。小学生から読める内容にし、学校の副読本にするよう市教委に提案したが、採用は見送られた。
 同会の北沢保会長(72)は「秋水が訴えた相互扶助、非戦論などは現代社会でも通じる。改憲論、それでいいのか。われわれは世の中の構造をもっと学ばねばならない」と力を込め、副読本について、難しい部分を編集し、市教委に再提案する計画だ。北沢会長は「外から来た人に『秋水? 知ってますよ』と住民が胸を張って話ができる町にしたい」と話す。
 ×  ×  ×
 商工会議所や商店振興会など12団体からなる同実行委は、秋水シンポジウム(5月29日)▽幸徳秋水特別展(9月)▽大逆事件サミット(9月24日)などの行事を予定。親しみやすいキャラクターを作り、観光用グッズの開発も控えている。
 墓前祭は24日午後0時半から、四万十市中村山手通の正福寺墓地で。終了後、市役所で交流会。幸徳家の養子で秋水の兄、駒太郎のひ孫に当たる幸徳正夫さん(東京都)が講演する。参加費無料。【千脇康平】
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 ■ことば
 ◇幸徳秋水
 中村町(現四万十市)出身。自由民権思想家、中江兆民に18歳の頃から師事。週刊「平民新聞」を創刊し、非戦論を貫いて日露戦争に反対する。渡米して無政府主義の影響を受け帰国。1910年、天皇暗殺計画の首謀者とみなされ逮捕された。暗殺未遂の大逆罪で起訴され翌11年1月24日、死刑執行。時の明治政府が仕組んだえん罪だったとの見方が今では大勢を占める。
1月24日朝刊
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110124-00000140-mailo-l39
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【コラム】(TOKYO Web)
筆洗 2011年1月24日 http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2011012402000040.html
 夕暮れが近づくと、東京都新宿区内の小さな児童公園には冬の日差しは届かない。子どもたちの歓声も聞こえない公園の片隅に、汚れたブロック塀に囲まれて一つの碑がある▼かつてこの地にあった東京監獄で刑死した受刑者を慰霊するために戦後、日弁連が建立した石碑だ。一九一一年、その監獄で大逆罪に問われた社会主義者の幸徳秋水らが絞首刑になってからきょう二十四日でちょうど百年になる▼明治天皇を爆弾で殺す謀議をしたとされる事件の真相は戦前、闇に包まれていた。刑死者の多くは、予審段階で検事が捏造(ねつぞう)した調書などを基に罪をでっち上げられた。その事実が知られるのは戦後になってからだ▼ 公判は非公開で、一人の証人尋問もなかった。大審院は一カ月足らずの審理で二十四人に死刑判決を下し、その翌日、天皇の恩赦で十二人が無期懲役に減刑されている。死刑執行は判決の日から六日後という異例のスピードだった▼韓国を併合し、遅れてきた帝国主義国家が、戦争に反対する社会主義者たちを一網打尽にしようとしたこの事件は、決して教科書の中の世界ではない。証拠の改ざんや冤罪(えんざい)の多発など最近の検察の不祥事を見てもそれは明らかだろう▼当時の新聞は政府の発表をうのみにして、何の疑問を差し挟むことなく、刑死者をむち打った。新聞も自らの過ちを問い直さなくてはならない。

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刑死から100年、幸徳しのぶ 大逆事件、故郷で墓前祭

大逆事件100年サミット

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